澤崎 賢一『ことばとイメージと』
第6回「車窓には大粒の涙、グルグルとウルグルと箱庭に。」
なんだかミニチュアの写真のようにも見える、のはコロナの影響でタンザニアにもブルキナファソにもどこにも行けなくなって久しいからなのか、いやいやだいたいにおいて時間が経ってから眺める写真というものは、他人事のように感じられてくると相場が決まっているからなんじゃないのかい、などと自分の内面の万華鏡に写り込んでいる他人のような自分自身でもあるような某(なにがし)かが囁くのを片耳に、確かに目の前に広がっていたはずのタンザニアのウルグルの山々に目を凝らすと、山に木がないことに、知っていながらも穏やかに驚く、のはこれは人為的な営みが原因であることを思い出す。この写真だけだと何の作物を栽培しているのかは不明だが、この近辺ではトマトやキャベツなどの野菜をたくさん生産して販売して現金を確保する生活が営まれているそうだが、この写真に人影は見当たらない。よくよく目を凝らすと、真ん中上のはるか向こうの方に白い建物らしきものが見えたり、手前の禿山のように見える山々の斜面に段々畑が連なっているのが見えたりして、この段々畑を下から見上げると首に痛みを感じるほどの急斜面であったことが思い出されて、首の後ろや両肩の疲労困憊した痛みをともなうコリが気になり始めて頭をクルクル回しては右に左に傾ける、ならば硬直した走馬灯がチカチカし始めて、なぜだか杉で覆い尽くされた高知の深い山々を長く貫くトンネルをハンドル握りしめて山の手線を駆けるようにグルグルと光のさす方に向かって揺られて無限的なループの心地よさと不安さが混じり合った鼻歌にならぬような吐息を漏らしたかと思うと、再びウルグルの山々に再会している、のがこれがイメージの遊戯的連想なんだけれども、その連想はやはり君をどこかへ連れて行くようなものではなくて、いつもイメージの前から逃れられないとても現実的で多次元的なループというか渦というか、波打つ山脈のようにも見えてきて。そしてここが現在なわけだけれども、ボソボソと頼りなく立つ木々の本数を数えてみようかと思いつくやいなや、今度は山々の連なりがまたぞろミニチュアの箱庭のように見えてきて、かろうじて右上に垂れ込む雨雲だけが奇妙な立体感を保持し垂れ込んでいるんだけれども、車窓から見える景色にはすでに大粒の涙が打ちつけていた。