澤崎 賢一『ことばとイメージと』
第5回「バニラに渦巻くまなざし、方向を失った重力がイチジクとザリガニと汗、冷たい梅雨に乾いた額のイメージが。」
パラパラと小雨の降るお昼過ぎ、ムッとする湿気と暑さが外気を覆い尽くしているなか、子供たちが我先にとバニラの苗に群がっているタンザニアのウルグル山地の南西部の小学校、の写真を僕はエアコンが良く効いた近所の喫茶店でアイスのカフェラテを飲みながら見つめている。畑に移植されようとしているバニラの苗に注がれる興味津々の子供たちの渦巻くようなまなざしに含まれる期待は、はたして新しい見たこともないようなものへと向けるような無垢な動機なのか、それともこのバニラ栽培が自分たちの将来を大きく左右するような生業になりうるのかもしれないといった戦略的な動機も混在しているのか、僕には推し量ることはできなかった、と、何人かの子供たちがカメラを訝しげに見上げているのに気がつく。特に、渦の中心で須田さんが植えているバニラの苗のすぐ左上で眉間にググっと力を込めた少年のまなざしが何だかイタイな、と思うと同時に中心に向かって落ちているんだか進んでいるんだか、重力の方向が定まらない感覚を覚え始める。そんなだから記憶の方向性も迷子のままで、この写真を撮影したとき、出来事としては子供たちにバニラの植え方を教える実習が行われていたことは思い出されるが、そのときに自分がどこからその風景を眺めていたのかが定まらないのだから不安になる、のはだってそれは、人間の記憶というものは都合の良いものでもあり、ときと場合によってはコントロールだってできるもので、僕がいまこの写真を介して見ようとしている世界は、この写真を撮影したときに起こっていた出来事とは必ずしも関係しているという保証はないのだから。それでもこの日に降っていた雨のことを思い出すと、そういえば雨といえば、本来それほど多くは雨の降らない2月であったにもかかわらず、このときのタンザニア訪問では、ダル・エス・サラームの空港についてからいきなり土砂降りの雨に見舞われたりしたことが連鎖的に頭の中に浮かんでくる、のを改めて断ち切ってから写真に映り込んでいるものをじっくりと味わうために梅雨の終わりの雨音で瞼を湿らせると、一心に鍬を振りかざす子供たちの雨に濡れた肌をじわりと垂れる汗が思い出されてくる、と書かれたこのテキストを何度か読み返していると、ぼんやりと自分自身が子供だったときのイメージが湧き上がってきて、この写真に映り込んだ子供たちのように渦巻くような好奇心に突き動かされて必死に側溝のザリガニを網ですくったことや母親を無理矢理連れ出してイチジクの木に生息していたカミキリを捕まえに出かけた体験が、子供である自分の額の汗粒に投影されて微かに歪んで揺らめきながら像を結んでくるんだけれども、僕の額の汗はひんやりとした喫茶店のエアコンですっかり乾いてしまっていて、イメージが枯渇しているような気がして慌てて水滴がビッチリとコップの外側にへばりついた程よくヌルくなった冷水をクビっと喉を鳴らしながら飲み干したら、コップをつたってテーブルを濡らす水滴に歪んだ光のようなものが写り込んでいた。