澤崎 賢一『ことばとイメージと』
第4回「胡座、をかいてびしょびしょに、ダルエスの夜、紅白梅図屏風の波々が。」
タンザニアへと向かう空港でのひととき。アフリカのような遠い場所に向かうときにはいつもそうなのだけれど、多かれ少なかれ、ある一定の時間、移動の間隙に胡座(あぐら)をかいて過ごすことになる、んだということ、それから僕自身はその移動の隙間が案外心地よく嫌いではないこと、を思い出しながらエアコンがよく効いた空港のロビーで今まさにこのテキストを綴っている、とここまでは空港で綴りつつ、その続きはダル・エス・サラームのホテルのベッドの上で綴ってから、なんとなく改めてスマホの画面の中に胡座をかいている田中さんのほんの少し訝しげなまなざしを眺めている。この写真を魅力的なものにしている要因は、なんと言ってもやはり胡座をかく田中さんの訝しげな表情だろうな、とベッドの上に胡座をかいたまま、つらつらと。靴を脱いで椅子の上に胡座をかいている田中さんの姿をみると、既に長い時間その場所で飛行機の搭乗を待ち続けているか、これから長く待つことを承知でリラックスしているか、いずれにしろある一定以上のときの堆積のようなものを感じさせるが、左端に偶然写り込んでいる人物の颯爽と動く様が対比的に胡座をかいた田中さんの不動の時間の塊感を増幅させていく、のだがしかし、振動していない流れていない時空のカタマリ感をどうやって増幅しようと言うのだ、ともう1人の自分がツッコミを入れたところで、まるで大きな肉の塊をしばいたときにブニョとした感触しか残らないかのような、鈍い無感情な物質感しか残らない、ので、これでは到底漫才にもならない。だから、つと床の模様に目をやると、光琳の紅白梅図屏風を彷彿とさせるデザインのパターンの波々が、オプ・アート然としたテクノな情報の海のようにも見えてきて、そうすると田中さんは情報の海を漂うブレッドボードの上に胡座をかいているようなことになるのかと比喩を飛躍させようと試みるが、それも何だか無理やりだな、と思われてきて溜息に近い吐息をこぼすと肌寒いなと感じて、目を上げるとエアコンがガンガンに効きすぎた高層ホテルの一室の窓の外はすでに薄暗く、締め切った窓の外の車やバイクのエンジン音が街の喧騒にまじりながら籠もったように耳にまとわりついてくるのがウザったいのでようやく胡座を解いてフラフラと窓の方へ歩み寄って行き、窓ガラスを一息にスライドさせると思った以上のデシベルで街の喧騒がモワッとした湿気と暑さと一緒に部屋の中になだれ込んで来たので、思わずのけぞるようになっていたら、天井にも紅白梅図屏風の波々が描かれているのを発見して、かと思うと天井の波々が一気に降りそそいできたからハッとするとダル・エス・サラームの街にも豪雨が降りそそいでていて、肉体のすみずみまでがびしょびしょになると気持ち悪いことが気持ちよくなってきて、ウザったいのが心地よいような、なんだか言葉にこびりついた意味のようなものまでもが洗い流されていくのが気持ちよくなっている、とすでにダルエスの街も僕の瞳の中も、深い霧のような夜に覆われていた。