澤崎 賢一『ことばとイメージと』
第3回「ファインダー越しのコンタクト・ゾーン、伝統的にボロボロ、と。」
カメラ片手に風景を探っている最中に、望遠レンズ越しでないとはっきりと気がつかないくらいの向こう側にふたりの子供。なぜか不自然に屹立し、こちらを見つめたまま動かないのはいったいどうしたことだろうか、と考えるというか「間」が数秒ほどあって、あの子たちは僕がなんとなく構えているカメラの豆粒のようなレンズを意識してぴしっとポーズを取っているのだと、はたと気がつく。ここはブルキナファソの伝統的な家屋が残っているカッセーナ。たぶん、収穫後のだだっ広い畑にふたりの女の子、よく見ると背の高い少女は背中に赤ん坊を背負っている。彼女らの視線は、僕にとってはあまりにも遠く感じられた。例えるならば、大阪の中心部を南北に縦断する御堂筋の交差点で、向こう側の対角線上に立っている歩行者に反対側からどんなに熱い視線を投げかけても、それに気づかせることは容易ではないが、この写真の2人の子供たちは、それよりもずっと向こうの方、僕が気がつかないような距離を隔てながらも、勝手に僕のカメラを介した視線を感じ、身構えている。人と人とがコンタクトするゾーンが異様に遠いのだ。そう言えば、タンザニアの山間部を訪れたときも、村人が遠い向こうの方に向かってデカイ声で何やら会話をしていたのを思い出す。そのおばちゃんの視線の先を追ってはみたのだが、しばらく探っても会話の相手がどこにいるのかが分からない。それもそのはず、おばちゃんの話相手の別のおばちゃんは、小高い隣の山の木々の影に佇んでおり、その小さな姿は一見すると風景に溶け込んでしまって見えなくなっているのだ。対照的に僕の暮らしにおいて、このテクストをパソコンで叩いている今もそうだけど、僕の視線は大体においてとても近い。その上、近視がひどくて遠くはぼやけて実態を失うがごとしだし、最近は老眼まで出始めて服用する胃薬の瓶に書かれた成分すらまともに読むことができない始末で、40年も生きると身体のインターフェイスはボロボロで、家屋でも築40年ともなればなかなか手がかかるし、自動車に至っては40年も経っていればすでに廃棄処分されているような時間の長さなんだな、と考え込むが眺めている写真の背景に写り込んでいる比較的新しい家屋をみて、「伝統的」だとされるカッセーナの家屋も数年置きには土壁を手入れしたり大雨で崩れたりするそうだから、そこそこの時を重ねてきた自分自身の肉体をボロボロな伝統と言うか、伝統的にボロボロと、と韻を踏んで言うのがいいのか、などと取り留めもないことを字面で追い続けていたら足を組んでねじれた姿勢が骨盤を歪ませて腰が軋みだす、からカラダを起こして顔を上げると、開け放たれた窓の外から室内にしっとりと涼しい空気が流れ込んでくる。ああ、そろそろ梅雨が近づいてきたようだな、と。