
ことばとイメージと
澤崎 賢一
この連載「ことばとイメージと」では、東南アジア・アフリカ・ヨーロッパ各地で撮影した写真に寄り添いながら、短いテキストを綴っていきます。写真が体験を説明するための証拠になるのではなく、むしろ出来事のあとに残る手触り――言葉になりきらない感覚や、遅れて立ち上がってくる記憶――が、ふいに言葉を呼び出してしまう。その瞬間を、できるだけ型にはめずに受けとめたいと思っています。
僕は近年、世界各地でフィールド調査を行う人類学者や農学者などの研究者に同行し、彼らの活動を映像や写真で記録してきました。調査の現場には、観察や記録の時間だけでなく、移動のあいまの沈黙や、食事のときの雑談、現地の人たちとの交流といった、名づけにくい時間がたくさんあります。ブルキナファソやタンザニアの村で過ごすなかで、驚きや新しい発見に何度も出会いました。
一方で、若い頃から海外の調査を重ねてきた研究者たちとは違い、僕は数年前までアフリカに行けるとは思ってもいませんでした。ひょんなご縁から旅と現場が続くようになり、いま強く感じているのは、目の前で起きることの豊かさに“慣れてしまわない”ことの大切さです。人は、同じ人間が暮らす場所に行けば行くほど、現地の作法に馴染んでいきます。馴染むことはもちろん必要で、そうでなければ関係も築けないし、物事も先へ進まない。
それでも僕が手放したくないのは、中年の只中――五十歳の手前に差しかかるいま、自分自身の自明性が揺らぐ場面に出会えることの楽しさと労苦に、できるだけ敏感でいることです。整理しきれないものは、整理しきれないまま抱え、咀嚼し続ける。その“未整理”の状態そのものを、急いで結論に変えないでおきたい。
僕は映像メディアを用いて、フィールド研究者の皆さんの協力のもと「知の余白」から生まれうる創造性を追求してきました。この連載は、その余白に、僕という人間の主観的な感覚や感情を少しだけ混ぜてみる試みでもあります。写真を見ながら体験を説明するのではなく、共有のために整えるのでもなく、もう少し質の異なる“つぶやき”として言葉を置いていく。
未知の旅路で出会った景色や人や出来事に、驚き、戸惑い、汗を流しながら記録する。後になってそのイメージを眺め、思い出したり、別の連想へ逸れたり、ときに感傷に触れたりする。その揺れを、なるべく抑え込まず、ときに詩的に、ときに冗長に書き留めていく。そうすることで、研究の余白だけでなく、生存の余白――これまでの暮らしのなかで身につけてきた生きる作法では捉えきれなかった感性――が、わずかに立ち上がってくるかもしれない。そんな淡い期待が、この連載タイトルの最後の「と」の先に込められています。