寺田匡宏『思考のかたち、雲のかたち』
第7回「女たちの読みかえ」
「女たちの大江健三郎」という対談が文芸誌に載っていた。
工藤庸子と尾崎真理子の対談である。工藤はその雑誌で大江作品の批評を連載しているフランス文学研究者で、尾崎は2年ほど前に完結した『大江健三郎全小説』全15巻の巻末解説を一人で書いた読売新聞の元文芸担当記者。その二人が、このほど刊行された尾崎の『大江健三郎全小説全解説』の刊行を記念して語り合ったというのがその対談だ。
それを読んでみると、なるほどと思わされた。大江健三郎は男性の作家だが、女性の視点から見ると、その作品の中にはきちんと女性が描かれていて、とりわけ女性の苦難を描いているというのだ。
女性が小説でどう描かれるかというのは、最近の文学をめぐる話題では欠かすことができない視点である。
その問題に敏感なのは女性の作家であることが多いと思われているのだが、大江はそういう問題に向き合っている、というのだ。と同時に、そのような大江の小説を、当時まだ数少なかった同時代の女性作家が、しっかりと受け止めて、それを批評しているともいう。
そういわれればなるほどとも思えるが、文学には男と女が出てくるのはごく自然なことでもある。ある意味では、女性が出てこない小説というはないともいえるので、そのように女性を描いているということをもって大江の文学を評価するのも変だとも思うが、ただ、そこに登場する女性がどのように描かれているかが問題であるということであり、その際の問題の一つが、女性の苦難であるということが、この対談の一つのテーマであり、同時に、大江の文学の一つのテーマなのでもあろう。
現代日本文学の古典の一つであり、現代沖縄文学の古典の一つである大城立裕の「カクテル・パーティー」を読んだとき驚いたことがあった。
この小説は、1967年に芥川龍之介賞を受賞していて、大城は、沖縄在住の作家としてはじめて芥川賞を受賞したことで著名である。
たまたま沖縄の古本屋で買ったこの本には当時のオビがついていてそのオビには「芥川賞がはじめて海を越えた」と書かれている。当時の沖縄は、「本土返還」前なので、施政権は米国にあった。そして、そのオビが「沖縄の抑圧された悲哀と容赦なき現実を描く作品集」「アメリカ占領下という、もう日本人一般が忘れかけている特殊な環境にまだ置かれている沖縄」というように、この小説は、沖縄とアメリカの関係を描いた小説として紹介されることが多い。
だが、驚いたことに、この作品を読んでみると、アメリカとの関係が以外に、中国との関係も色濃く描きこまれている。主人公は、戦争中に上海で日本軍の嘱託として通訳を行っていたという設定で、流ちょうに中国語を話す。そして、会話文にも頻繁に中国文が出てくる。
いや、そもそも、この小説のタイトルともなっているカクテル・パーティー自体が、米軍人と沖縄人と日本の本土人が作っている中国語を話す集まり(サークル)の小さなパーティーを指すのだ。沖縄は近世以来、歴史的に中国とのつながりが深いが、それが戦後まで続いていたことがこの小説には書かれている。このことは、現在では全く忘れ去られていることのように思える。これが、驚いたことの一つだ。
そして、この小説でもう一つ驚かされたのが、女性がまるでモノのように描かれていることだった。作品は、後半で主人公の男の娘が米兵によってレイプされるというストーリーなのだが、この作品の中には、その娘の内面の描写はなく、あたかもそれはモノのように描かれている。もちろん、内面の描写がないことをもって、それが苦難を描いていないと断定することはできないが、しかし、そこには、苦難を当事者の内面のものとしてとらえる姿勢は少なくともない。あたかも書き割りのように出来事が起こり、それが過ぎていく。
男の視点から見た出来事の語りとしては、そうなのかもしれない。
だが、それを女の視点から見た時、同じ出来事はどう語られるのか。
それを考えると、大江の小説の中に登場する女性たちは、その内面が大江によって豊かに描かれている。生きた女性として描かれている。ずいぶんと違うということになるだろう。
そのような女の視点から小説を読んでみるとがらりと変わるという経験は、島尾敏雄と小川国夫をめぐっても体験した。
島尾敏雄についていうなら、それは梯久美子の『狂うひと――『死の棘』の妻・島尾ミホ』という評伝である。
島尾は、折に触れて読んできた作家だ。
彼の小説『死の棘』の舞台となった千葉県佐倉市に住んでいたこともあって、なんとなく親近感もあった。『硝子障子のシルエット』や『南東通信』などの穏やかでありつつどこか不穏な空気を秘めた、小説とエッセイのあわいをただようような作品に魅了もされてきた。
島尾の小説世界は、彼の実体験と切り離すことができない。
彼の妻ミホは奄美大島出身で、島尾は、戦時中に特攻魚雷艇隊長としてその島に赴任したことから、現地で“少女”であったミホと知り合う。それはある種の運命的な出会いであり、戦争後にミホと結婚することになる。
特攻魚雷艇の隊長という死を前提とした立場でありつつ、重ねるミホとの夜ごとの逢瀬という、生と死の交歓が、あたかも神話的なイメージとなり、彼のその後の小説の根底的なモチーフとなる。
だが、実生活では、そのミホとの戦後の神戸と東京における夫婦関係は、島尾の浮気を原因としたミホの「発狂」により破綻。それを原因として、島尾一家は、ミホの故郷である奄美大島に引き上げることになり、彼は後半生を美大島の鹿児島県立図書館の館長として過ごすことになる。
その小さなコンクリート造りの小屋のような官舎がいまも、奄美の名瀬にある図書館のわきに残っていて、奄美大島に行ったときには、そこを見に行ったりしたことがあった。エッセイにも出てくるポーポーという果樹が生えていた。
彼は、ポーランドに滞在した体験をもとに『夢のかげを求めて――東欧紀行』という紀行記を一冊まとめてもいる。ぼくも、ポーランドにはごく短期間だが住んだことがあるので、この本も折に触れてひも解いてもいた。
彼の書くことは、どことなくぼんやりとしていて、そのぼんやりとした中で物事がぼんやりと進んでゆく。島尾に対しては、親しみだけではなく、どことなく幻想めいた雰囲気、あるいはなんとなくロマンチックな感じともいえる感情を感じていた。
だが、梯の『評伝』は、そのような感情を打ち砕くような本であった。
島尾敏雄の小説『死の棘』は、妻ミホが精神を病む次第を描いた小説であるのだが、それが一体、何であるのかよくわからないところがあった。
しかし、この本を読むと、それが何であったのかがはっきりと明らかになったのだ。
島尾は妻ミホがそのような精神状態に陥るようにしむけていた。
それは、ある意味での「操作」とも言ってよいだろう。隠すようで、隠さずに別の女との情交をほのめかす。それを書いたものの中に、見え隠れさせる。
人の感情を操ることを、しかも、文章で行っていたというのである。
島尾は存在する自らの文の世界の中にミホを誘い込み、その中でミホが島尾にそのようにさせられているということを意識しないようにしながら、そのようになるようにしむけていたのだ。
亀山郁夫がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の基本的モチーフは、「使嗾(しそう)」であるといったことがある。「使嗾」とは、そのように、そそのかして、そのようにさせること。これに似た言葉として「忖度」という言葉もある。ある人に、ある事柄を「忖度」せしめる関係性に持ち込むことが権力者の権力者たる所以であるが、「使嗾」も「忖度」も、人を操作することである。
そのようなことを島尾は行っていたのだ。
ミホの「発狂」が、病としては、どういう病であったのか、梯久美子は『狂うひと』の中では述べていない。だが、千葉にある国府台の精神病院に入院していたのだから、精神の病の一種であったことは確かであろう。
精神はもろいものである。人の精神は壊れないように見えて、すぐに壊れてしまう。ミホの精神は、壊れてしまった。
島尾にはそれを後ろめたいと思う気持ちもあったのであろう。結局、彼の後半生は、ミホにつき従い、ミホの故郷の南島で過ごすことになった。
その意味では、彼は、自分の行ったことの償いをしたともいえる。
死の棘とは、まさに、彼が自らの存在に打ち込んでしまった棘のことを指す言葉であるかもしれない。
この島尾敏雄とミホの関係には、人間関係における、様々な問題を見ることができるだろうが、それを明らかにしたのが梯久美子という女性であったことは大きいと思う。
なぜ、このような関係性が生じたのかを一つ一つ丹念に事実をもとに突きつける手法は圧巻である。そのもっとも根底には、男である島尾が女であるミホを操作しようとしたということがある。
そのようなものとして『死の棘』や島尾の書いたものをすべて読み返すとどうなるのか。
女が読むことで、その小説の意味ががらりと変わってしまうというコペルニクス的転回があることを示したのが梯久美子の『狂うひと』である。
島尾敏雄と縁の深い作家である小川国夫の書いたものも女性の視点から読むと全く異なるということを小川の妻である小川恵が書いた『銀色の月』を読んで体験した。
小川国夫は、島尾敏夫の10年ほど年下の作家。第1作の『アポロンの島』を島尾敏雄が激賞したことによって世に出たという経緯を持つ。二人ともどこか共通する部分があり、対談集も出したりもしている。
小川国夫文学の魅力は何であろうか。
切り詰められた表現と、キリスト教の原初の光景である砂漠的な光景を、描かれたのが、日本であれ、空想上の中東であれ、文学世界の中に作り上げたことであろう。
そこには、彼の孤高の生き方のようなものが反映しているという読みもがおこなわれることもある。
小川国夫は繰り返し、彼の学生時代のヨーロッパの単独でのバイク旅行について書いた。
1950年代に単身フランスに留学し、その地でオートバイを借りてフランスから地中海に抜けることは想像もつかない冒険であったろう。
それを小川は文学にまで昇華させた。孤独の中で、一人、旅をする青年というのが小川の強いイメージである。彼の描く、キリストの像もどこかそれと通底している。
だが、小川国夫の妻小川恵が書いた『銀色の月』は、そんな小説世界にふさわしい作者としての小川夫の別の一面を語る。
小川恵が描き出すのは、妻と夫との間に存在するおそろしいまでのディスコミュニケーションである。
この二人の間には、通常の意味の人間的関係や対話があったのかどうかという疑問すら生じる。妻を人間として扱っていたのであろうかという疑問すら生まれる。
もし、そうでなかったとしたならば、そこにあったのは何であったのだろうか。
作家としてのイメージとして、小川は確固としたものを作り上げた。それは、孤高の生き方をする、独行者キリストとも重ね合わせられるイメージであるともいえる。
だが、実は、それは、その作家としての生活を支えていたはずの、家族のとは何のかかわりも持たないものであったことが告発されている。
ありがちな夫と妻のすれ違いと考えるべきなのだろうか。あるいは、ある世代特有の男のふるまいと考えるべきなのだろうか。だが、一方の当事者の側からすると、それは、そのような一言で片づけるにはあまりに大きな問題である。
小川は家に編集者や読者を招いたり私生活を公開していたりもしている。そこに妻は加わることはない。妻として、そのような小川国夫に、小川恵はどんな思いを抱いていたのだろう。
極北の文学と、小川国夫の書くものを持ち上げる男の読者たちを、小川恵はいったいどのように見ていたのか。
小説の作者と小説の中身とは別物である。だが、一方、作者の影が色濃い文学もあり、小川のそれも、島尾のそれもそのような系列のものである。
そして、そうであるがゆえに、別の目から見た読みが加わったときに、がらりと変わってしまう文学であるともいえる。
それは、隠されていた文学の虚飾がはがれたということだろうか。
ある意味ではそうともいえる。だが、しかし、もともと、その文学は、そのような作者によって書かれたのだったとしたら、そのような読みの可能性を秘めていた文学であるということも言えるだろう。
それを苦々しく思う人もいるかもしれない。
だが、それは、あるテキストの新しい可能性が開かれていることだともいえるだろう。
そんなものとして、もう一度、島尾敏雄と小川国夫を読み返してみたいとも思う。そこからはじまる何かもあるのではないか。
【文献】
工藤庸子・尾崎真理子「女たちの大江健三郎」『群像』75(11)号、2020年
梯久美子『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』新潮社、2016年
小川恵『銀色の月――小川国夫との日々』岩波書店、2012年