寺田匡宏『思考のかたち、雲のかたち』
第9回「松風と素粒子――たましいと肉体の老いと死について」
1 詩人の老い方
詩人の佐々木幹郎に『詩人の老いかた』という本がある。1986年に刊行されたエッセイ集だ(佐々木1986)。
この本は、佐々木の第3エッセイ集だが、数多くの詩集や小説や評論集の批評を中心に編まれている。そのほとんどが、1970年代後半から80年代に書かれている。佐々木は1947年生まれだから、つまり、佐々木の二十代後半から三十前半にかけての文章が収められていることになる。
とり上げられた詩人は、彼の同世代では吉増剛造、正津勉、藤井貞和、季村敏夫、岡田哲也、少し上では、谷川俊太郎、もっと上では、秋山駿、秋山清、田村隆一、谷川雁、吉本隆明、吉岡実などの名前が見える。小説家では同世代では中上健次、村上龍、村上春樹、津島佑子、川本三郎、富岡多恵子の作品がとり上げられている。より古い書き手としては、中原中也や与謝蕪村の名前も出てくるが、中心的に扱われているのは「同時代」の詩人や小説家の作品である。
同時代の詩と小説と評論を貪欲に収集し、それに対する批評を加えてゆく。同時代性にそれほどこだわらない詩人も作家もいる。しかし、佐々木はそういうたぐいの書き手ではない。同時代の空気をどうすくいとるのか、同時代の空気をどう言語化するのかを自分で自分に課す書き手である。そうして、そのようなコミットメントを通じて、むしろ、同時代の空気を自らも作って行こうともしていたようにも思われる。当時、時代の先端を行く表現者の一角に、佐々木は確実に位置していた。
そんなエッセイ集の中に収められているのが、「詩人の老いかた」という一篇であり、その一篇は、それを含む「詩人の老いかた」という章のタイトルになり、そうして、その「詩人の老いかた」という章のタイトルは、この本一冊の題にまでなっている。
しかし、「詩人の老いかた」というタイトルをどう考えればよいのだろうか。
そもそも、そのフレーズは、それほど一般的でもないし、それほど人々の関心を引きそうにも見えない。たしかに、意表はつくが、あまり魅力的でもないし、それに何といっても、全く同時代的でもなければ、時代の先端を行くものでも全くない。同時代評論であるはずのこのエッセイ集に、佐々木は、どうして、全くそぐわないタイトルを付けたのかといぶかしく思われるほどだ。
1980年代と言えば、高度成長期が一段落して、バブル期に入る直前であり、「老い」の問題が中心的課題であったとは思えない。むしろ、「老い」は見向きもされない時代であったのではなかろうか。そんな中、いったいどうして、「老い」なのか。
「詩人の老いかた」という一篇を含む、その章には、「詩人の老いかた」のほかにどんなエッセイが収録されているのか。そこに収められているのは、「老人と海」、「腐敗の方法」、「自然詩人の必敗の地点」、「いかにいやらしく老いるか」、「子供とは何かという問い」、「桃の花見の話」、「詩と詩人への切なき思い」という7編である。なんとなくそれを示唆するタイトルもあるし、それを示唆しないタイトルもあるが、そのどれもが、「詩人の老いかた」に広い意味で関係したエッセイだ。
「老人と海」は、ある詩人に誘われて出かけた三宅島での老人との出会い。「腐敗の方法」は田村隆一が「うまく腐敗してくれるだろうか」という老い方への問い。「自然詩人必敗の地点」は吉本隆明の、「いやにやらしく老いるか」は谷川雁の、「桃の花見の話」は秋山清の詩や詩人としての生き方を論じたエッセイである。もっとも古いものが1978年、最も新しいものが1986年に書かれている。
佐々木は、1947年生まれだから、最も古いものが書かれたとき、彼は31才、そうして、その中で最も新しいものが書かれた時、彼は、39才。31才は老いどころか、青年期ともいえるだろうし、39才も老いとは無縁の壮年期の真っただ中と言える。そんな中、佐々木は、老いについて考えていた。いったいこれはどういうことなのか。
「わたしは自分が老人になったとき、どんな風に生きるのか、どんな風に死ぬのか夢想する悪い癖がある。」(佐々木1986: 360)
佐々木はこう書いている。人は、何才くらいから老いを考えるのかわからないし、老いを考えるのに適切な年齢がそもそもあるのかわからない。だが、人間の終着点には、生命の終焉があるわけで、その生命の終着点に近づくのは順調にいけば老いであるわけであるから、老いはだれしもが考えてもよい事柄ではある。しかし、三十代での佐々木の老いへの関心はあまりに早すぎないか。
とはいえ、このエッセイ集を読んでみると、ここでの「老い」とは実は、肉体的な「老い」とはあまり関係がなさそうだということがわかってくる。佐々木が問題にするのは、形而上学としての「老い」。いや、詩人にとっての実在の問題としての「老い」。そのように、佐々木が論じる背景には、詩人とは未完成なものであり、未完成とは、青年期にしか許されないことだという含意がある。
2 夭折と詩人
詩人とは未完成を追い求める人であるとするならば、詩人とは夭折することが最も理想であるということになる。
近代とは、その未完成の詩人の像を追い求めた時代だった。佐々木幹郎は、『詩人の老いかた』の中で、中原中也と立原道造の名を挙げている。中原中也は、1907(明治40)年に生まれ、1937年に死んだ。享年は31才である。詩集としては、『山羊の歌』があるだけで、その死後に『在りし日の歌』が出版されている。立原道造は、1914(大正3)年に生まれ、 1939(昭和14)年に24才で死んだ。詩集として『萱草に寄す』、『曉と夕の詩』を残した。
『詩人の老いかた』の中で佐々木が挙げているわけではないが、そのほかにも、近代の夭折詩人としては、日本では、石川啄木(26才で死去)や、北村透谷(26才で死去)、村山槐多(23才で死去)などの名前があげられるだろう。ヨーロッパでいえば、アルチュール・ランボー(37才で死去)か。どの死も、老いを迎えるどころか、中年期、壮年期も迎える前の死である。夭折である。
だが、しかし、一方、彼らの作品は、それが現在でも広く読まれていることからもわかるように、作品として完成していた。つまり、詩人としては、彼らは完成していたのである。夭折という語の中にある、未完成というニュアンスからすると、彼らの死は夭折ではなかったということになる。とはいえ、しかし、彼らの作品は、彼らのその年代での死という事実とともに読まれている。とするならば、その死は、未完成の死ではなかったことになるが、その死が夭折であったがゆえに、詩人を完成させたともいえる逆説的なものであったことになる。
佐々木は、1976年に中原中也の恋人であった長谷川泰子を主人公にした映画「眠れ蜜」を作り、1988年に中原中也の評伝を書き、1994年に山口市に開館した中原中也記念館の開館に携わり、2000年から2004年に『新編中原中也全集』の編纂に編纂委員として携わり、そうして、1996年から現在まで、中原中也賞の選考委員を務めている。佐々木の生涯は、まるで、中原中也という存在に取りつかれているようだ。
中原中也は先ほども書いたように、夭折詩人の代表格。もしかしたら、佐々木が三十代のころに盛んに老い方の問題が気になったのは、30才を超えて生き続けて、詩は書けるのかという問題に直面していたことによるものでもあったのかもしれない。
ここに見られるのは、形而上的な老いと形而下の老いの相克である。その相克は、たましいと肉体の問題でもあり、それは、死そのものの問題ともかかわる。たましいは老いるのかという問題は、肉体は死ぬがたましいは死なないという発想とも表裏一体ともいえるが、それを詩人という具体的な存在の生きた姿からとらえようとしていたところに佐々木の詩人としての面目の躍如たるところがある。
3 たましいは老いるのかーーテセウスの船のパラドックス
たましいが老いるのかどうかという問題は、たましいとは何かという定義にかかわる。仮に、たましいは老いないというならば、それは、たましいは物質ではないから老いないということを言っていることになる。これを、逆に言えば、物質は老いるということになるが、しかし、物質が老いないということもあるだろう。常に更新をしている物質は老いない。常に更新している物質とは、生命体であるが、生命体が常に更新し続けるならば、それは老いることはない。
一方、たましいには、形も物質もないので、たましいは、老いというものがないともいえる。たしかに、形もなく存在もないものには、そもそも、老い、つまり古びる、ということが起きるはずがないようにも思える。
とはいえ、しかし、たましいには老いと言うものがあるようにもみえる。子どものみずみずしい精神というのはたしかにあるように思えるし、大人の成熟した精神というものもある。老人の枯れた精神というものもある。だとしたら、たましいにも老いというのは確実に存在するといえる。
もし、それが、身体と関係しているのならば、それは、子どもの体を持つ人には子どものみずみずしい魂があり、大人の成熟した体を持つ人には、大人の成熟したたましいがあり、枯れた老人の体を持つ人には、枯れた、老いたたましいがあるということになる。そうなると、それは、たましいと肉体が連動しているということになるかもしれない。
たましいと肉体が完全に分離していると考えると、たましいは、それ自体としての独自性を持っているようにもみえるが、しかし、一方で、たましいと肉体とは、やはりつながっているようにも思われる。そうなると、そこには、何らかの相関関係があると考えた方がよいのかもしれない。
このたましいと身体の関係とは、目に見えるものと目に見えないものとの関係である。あるいは、物質に存在する、目に見えるという側面と、物質に存在する、目に見えない面の関係ともいえる。物質には、目に見える側面がある。それは物理的側面だが、同時に、その物理的側面と同時に物質には目に見えない側面がある。それは、性質や、特性や名前や特徴やといったものである。そこに、たとえば、誰かがいたとして、その誰かがなんという名前かは、どこにも見えない。そこに何かがあるとして、その何かが重いのか軽いのかはどこにも見えない。目に見えない側面とは、アイデンティティともいえるし、形而上的性質ともいえる。
古代ギリシア人が考えたといわれる「テセウスの船のパラドックス」というパラドックスがある。プルタルコスが『英雄伝』の中で紹介している。それは、海洋民族のギリシア人らしく、船という譬えを用いて、目に見える側面と目に見えない側面の関係性を考えようとしたパラドックスだ。
ギリシア神話ではアテネを創建したことになっている英雄のテセウスが帆船を所有していた。その帆船は、常に修理されており、例えば、甲板の板一枚、竜骨の部分一個など、少しずつ少しずつ古びた材が取り除かれ、新しい材に入れ替えられている。少しずつ入れ替わっているので、ひとは、修理という名の入れ替えが行われているのに気づかない。だが、しかし、修理が続いているうちに、いつの間にか、船を構成する材が、初めに建造された際の材からすっかり入れ替わることになる。初めの材は全くなくなり、すべてが新しい材だけになっていたとする。そうなったとき、それは、もとの船と同じだと言えるのか、それとも別の船であるのか。これが、テセウスの船のパラドックスだ。
自己同一性とは何かという問題がそこにはある。ギリシア人は、海洋民族らしく、船の事例を挙げたが、たとえば、日本人ならば、伊勢神宮の例を挙げるかもしれない。伊勢神宮の社殿は、20年ごとにそっくりそのまま新しい材に入れ替えられる。古いそれも、新しいそれも、どちらも伊勢神宮の社殿であると考えられているのだが、しかし、それは本当に伊勢神宮なのだろうかという問題である。
もちろん、神社とは、カミそのものではなくて、たんなるカミの入る「うつわ」というか、カミがそこを足場にしてこの世に存在しうる場所であるのだから、伊勢神宮が、同一か同一でないかということはあまり問題ではないかもしれない。重要なのはカミであって、その仮の宿りである社殿ではないともいえる。しかし、とはいえ、目に見えるものとしては、社殿しかないのだから、それはそれなりに重要でもある。それに、それが重要だからこそ、そうして、常に新しいものを作るという行為が行われているはずだ。そこでは、物事の同一性がとわれている。カミの宿る場所の同一性である。この物事の同一性の問題とは、アイデンティティの問題だが、それは、目に見えるものの上に乗っかった目に見えないものの問題でもある。
テセウスの船は、「物」であって、いきものではない。だかから、テセウスの船のパラドックスは、物の問題である。しかし、それは、同時に、いきものの問題でもある。いきものは常に新陳代謝しているので、同じものはない。しかし、同時に、そのいきものは、あるアイデンティティを保持しているので、同じものが存在しているともいえる。
そこには同じ問題があり、それは、ある存在物があったとして、その存在物の目に見えるものとしての側面と、目に見えない側面の関係性をどう考えるのかという問題である。
老いとはそのような問題の中で、どのように位置づけられるのだろうか。いきものの場合も、テセウス号のようにすべてのパーツは常に入れ替わっている。もしかしたら、すべてがそっくりと入れ替っているともいえるかもしれない。
それに、個体としては、老いはあるが、種としては老いはないともいえる。いきものが次の世代になるとき、そこでは、全く新しい個体が生まれている。
個体の中での入れ替わりは、「テセウスの船」型の存続の仕方、世代間の入れ替わりは、「伊勢神宮」型の存続の仕方と言えるかもしれない。そのどちらにも共通するのが、ものと、目に見えないものの永続の問題である。
4 言語と自己回帰性
たましいと肉体の関係とは、言い換えると、物質の世界と精神の世界の関係をどう考えるかという問題である。これを、一つと考えるのか、それとも、二つと考えるのか。あるいは、一つと考えても、その一つの中を、物質側の原理が優先するものとして考えるのか、精神側の原理が優先するものとして考えるのかという問題である。
思想・哲学の専門用語を用いると、それは、一元論と二元論の問題である。一元論は英語で言うと「モニズムmonism」、二元論は英語で言うとデュアリズム「dualism」だ。モニズムのモノmonoとは、モノトーンのモノ、であり、モノローグのモノであり、モノポリーのモノである。「独」「単」というような意味を持つラテン語が語源となっている。
モニズムかデュアリズムかという議論とは、世界は一つの世界であるのか、それとも世界は二つの世界であるのかを問題にする議論である。あるいは、それは、世界を貫く原理は一つであるのか、世界を貫く原理は二つであるのか、という問題であるとも言い換えられる。
その際、何を二つと考えるのかが問題になるが、その二つが、物質と精神で象徴される何かである。世界は、世界は砂糖と塩に分けられるとか、世界は明と暗に分けられるとかいう分け方も当然あり得ようが、一元論か二元論かと言う場合には、そのような分け方は問題にならない。一元論、二元論というときの分け方は限定されている。
それが、物質と精神という分け方だが、それは、主観と客観とも言い換えられるし、あるいは、心と物とも言い換えられる。あるいは、それはたましいと肉体とも言い換えられるだろうし、心と身体ともいえるだろうし、目に見えるものと目に見えないものとも言い換えられる。そこでは、人間が内面に持つ世界、すなわち人間の自己が自己の内部で持つ世界と、その人間の内的世界の外側に広がっているように見える外側の世界をどうとらえるかが問題となっているのである。
物質の世界と精神の世界は同じ一つの世界に属していると考えるのが一元論(モニズム)である。それに対して、物質の世界と精神の世界は、それぞれ全く別の世界で、その世界の間には断絶がある、と考えるのが、二元論(デュアリズム)だ。
このモニズムとデュアリズムの問題には、長い思考の歴史がある。思想や哲学や宗教の歴史とは、まさに、この問題、すなわち、物質の世界とたましいの世界をどう関連付けるかという問題をどう考えるかという長い歴史であったともいえる。
いや、それはもっと遠い過去にさかのぼるのかもしれない。人間が言語を持ち始めたころから、この問題は、人間の心の中に存在しただろう。
人間が言語を持ち始めたのは数万年前だと言われる(Hinzen2013、Dunbar 2016)。10万年くらい前に、ホモ・サピエンスはアフリカを出て地球上に拡散し始めたのだが、その時に、拡散を支えたのが言語にもとづく様々な能力であったといわれている。ホモ・サピエンスの先祖と同時期に生息していた別種のホモ属のホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)はホモ・サピエンスと同じ身体形質を持つので、発話をすることができた。ただし、その発話はオウムが発話することができるように、会話ではなく発声にとどまったようだ。言語による会話とは内容が無限に生み出されることであり、その背景には、心や精神の領域が必要とされる。
ホモ・サピエンスの思考内容が、文字という記録媒体によって記録され始めたのは、数千年前である。人間が言語を持ち始めたのが数万年前だとすると、その言語の歴史から見ると、文字の記録の歴史とは、その十分の一くらいしかないわけだが、けれども、人間が言語を持ち始めたころ、つまり、思考を言語というメディアを用いて、構造化し、外部化し、その外部領域で、ある一つの者としてシステムを構築し始めたころから、おそらく、この物質の世界とたましいの世界の関係をどう考えるかは、中心的な課題であったはずである。もちろん、その頃は、哲学的な語彙や思考ではなく、物語や宗教という形をとっていただろうが(Dunbar 2016)、しかし、そのような形であれ、宗教や物語が存在したこと自体が、そのたましいの問題をどうとらえようとしてきたかということであったことを示す。
たましいの内容が、言語によって深められたとするならば、たましいは言語的な存在物でもあることになる。たましいは、ものとして存在するのではなく、言語として存在する。
だが、一方、そのたましいがどのような存在物であるのかを考えることも、言語によるしかない。
ここには、言語的構築物であるたましいを言語によって考えるという円環が生じているが、この円環性とは、人間の意識そのものが言語と分かちがたく結びついていることから来る、必然的に伴う現象であろう。これは、自己言及性self-referenceともいえるし、自己回帰性self-reflexionともいえる。ダグラス・ホフスタッターの『ゲーデル、エッシャー、バッハGödel, Escher, Bach』(1979=1989)が問題にしたように、自己言及性や自己回帰性には、測りがたい魅力があるのも事実だが、それは、人間の言語を用いて、表現することの難しい問題であることも事実である。
このような自己言及性や自己回帰性の存在は、人間の理性の“限界”であり、人間の認識の“源泉”である。クルト・ゲーデルKurt Gödelは、それを「不確定性undecidablity, Unentscheidbarkeit」というが、ブッダことゴータマ・シッダールタगौतमसिद्धार्थ Gautama Siddhārthaは、それを「縁起paticca-samuppada」という。
「不確定」を「不」という、確実性を阻害する何かであるとしてそれを見れば、それは“限界”だが、「縁起」という、何かを生み出すものとしてそれを見れば、それは“源泉”である。この点については、この後、改めて検討する(☞Section 18)。
5 たましい、プラトン、アリストテレス
紀元前4世紀ごろのギリシアの哲学者プラトンは、物質の世界とは別に、たましい(プシュケー)の世界が存在するという論を持っていた。プラトンは、それを「イデア」という。
たとえば、彼は、美というイデアの世界を想定する。美というものは、この世には存在しない。この世には、美しいものは存在するが、美、そのものは存在しない。『パイドン』、『パルメニデス』、『国家』において、彼は、美というものがイデアの世界に存在し、そのイデアの世界の美が、この物質界に分有 (メテクシス) されていると考えた(Platon1956: 353d, 479a-480a, Plato 1914: 74a-77a,100c-103b; 1939: 133b-134e)。
プラトンは、『パイドン』では、たましいがこのイデアの世界に属し、不死であることを述べている(Plato1914)。イデアの世界とは、物質の世界とは別に存在する世界だが、そこは、たましいが属するということからわかるように、精神の世界なのである。つまり、たましいと物質の二元論である。
一方、プラトンに直接に教えを受けたアリストテレスは、プラトンやその前の思想家たちを批判し、たましいと身体の関係を、現実態と可能態という視角から考えようとした。たましいとは、身体の現実態として出来するものであるというのである。
このアリストテレスの考え方は、ヒュロモルフィズム(hylomorphism)と言われる。この考え方によると、存在は、ヒューレー(hule質料)とモルフェー(morpheフォルム)からなると考えられる。あるものを要素に還元する点で、要素還元主義である。要素還元主義には、アトミズムもあるが、このヒュロモルフィズムは、アトミズムと若干異なる。アトミズムも物をその部分に分解するが、その分解した部分もあくまで物である。全体は部分からなるが、その部分は、全体と同じものからなると考える。それに対して、ヒュロモルフィズムは、全体は、ヒューレーという部分とモルフェからなると考えるのである。
その上で、アリストテレスは、たましい(プシュケー)を、心(ノウン)、知識(エピステーメー)との対比で考え、心や知識のより基底にあるものであり、感覚(アイステーシス)を引き起こすものであると考えた(Shields 2011)。現在の自然科学における認知科学が、人間の認識機能を分節化する仕方ともほぼ変わりのない科学的なとらえ方である。そこにおいては、プラトンのように、たましいと物質の世界が完全に分かれているのではなく、たましいと物質の世界は分かちがたく結びついていると考えられている。一元論ともいえるであろう。そこからは、たましいの不死というような考え方は生まれにくい。おなじ、ギリシアの哲学者の子弟であっても、たましいと物質の世界の関係をどう考えるのかには、大きな差があるのである。
ただし、アリストテレスは、たましいの大部分は身体とともに消滅するが、一部は不死であると考えている。『アニマについて(霊魂論)』の中で彼は、次のように言っている。
「知識とはその対象と同一化することで実現する。しかし、働きかけられるものとしての心は消滅するものであるが、一方、その受け皿のようなものつまり、可能態は消滅しないと考えている。可能態とは、現実態ではないものであり、そもそも、現実ではないものは消滅することはないからである。」(Aristotle 1936: 171)
ここでいう、可能態と現実態という区分も、この現実世界を分節化する視角であり、ある意味での二元論的な考え方である。この考え方は、たましいの領域と物質の領域という区分とは若干異なる二元論である。可能態とは、現実がまだ現実になっていない状態のことをさし、現実態とは現実が現実化している状態のことをさす。これは、たましいと物質とは無関係なようには見えるが、とはいえ、たましいと物質の二元論でいう二つの領域も、一方で、たましいの領域という目に見えない領域と、他方で物質の領域という目に見えるものの領域をさしていると考えると、可能態の領域は、ものがまだ現実化していない目に見えない領域であり、現実態とは物が現実化している目に見えるものの領域であるので、どちらも、同じことを指しているともいえる。
目に見えるものの世界とは、この現実世界だが、それとは別に、目に見えないものの世界が存在するというのは、人間が創造力というもの、つまり言語を持ったことによって生じた現象である。プラトンもアリストテレスも同じ問題を別々の角度から考えていたともいえる。
6 デカルトの切り離された部屋
近代の基本的な思考のパラダイムは、二元論がベースとなっている。その始祖であると言われるのが、ルネ・デカルトRené Descartes(1596年-1650年)である。デカルトは、世界を構成する二つの要素を、レス・コギタンス(res cogitans)とレス・エクステンザ(res extensa)と呼んだ。レス・コギタンスの「レス」とは「もの」を意味する名詞、「コギタンス」とは、「コギト」という動詞の現在分詞である。「コギト」とは、「われ思うゆえにわれあり」の「コギト・エルゴ・スム」のコギトであり、考える、思考するという動詞である。一方の、レス・エクステンザの「エクステンザ」は、エクステンススという語の女性形であり、それは、外に広がる、という意味である。
レス・エクステンザでいう「外」とはどこか。それは、精神の外である。つまり、ここでは、精神という内部の世界と、その精神の外という外部の世界が想定されている。思考とはあくまで、この「わたし」の思考でしかありえないので、ここでいう、二元論は、「わたし」とその外に広がる物体たちという同心円的な空間構造で表象されている。
デカルトは、コギトとレス・エクステンザがすっぱりと切り離されていると考えた。彼によれば、精神とは、物質からは生まれようもないものである。たとえば、人間の体を極小になって探検しても、そこには、精神というようなものはどこにもない。そこにあるのは、細胞であり、細胞の中にある原子であり、その原子の中にある陽子や中性子である。精神とは、物質とは全く違う次元のものなのである。
デカルトが「コギト・エルゴ・スム」を提唱したのは、『方法序説』(1637年)においてだが、その『方法序説』を読むと、彼は、その本を、彼が以前滞在していたドイツのある部屋での一冬を回想して、描写することから始めている(Descartes 1637=1987: 15ff.)。
デカルトが、本格的に思索の道に入ったのは、三十代からで、著述を始めたのは四十代からだが、青年期の彼は、各地を放浪し、当時分立していたヨーロッパの侯国の軍隊に出入りしていたようだ。このころ、ヨーロッパではのちに30年戦争と呼ばれる戦争の真っ最中だった(1618年―1648年)。1619年、23歳の彼は、バイエルン侯国の兵士となるために、ドイツ南部の都市ウルムに赴いたが、そこでひと冬を過ごすことになる。彼は、ウルム郊外の家に蟄居し、暖炉のあるその家の中で思考を深めていた。それはおそらく、1619年の11月10日の夜であろうと言われている。その思考内容が『方法序説』で書かれた内容である。
その思考の場は、コックピットのようなものだっただろう。ヨーロッパの家屋は石造りで外部とは切り離されている。後で見るが、デカルトは、生涯、思想の中心地パリとは距離をとっていたので、環境から切り離される状況を好んだようだが、この『方法序説』の回想も、辺りの自然環境からの切り離しを示唆する。そんな中で構想された彼の思想が、レス・コギタンスとレス・エクステンザにすっぱりと世界を分ける思想であったのは、そのような彼の生き方と環境が反映していたとも見えよう。
7 スピノザと自然
近代の基本的な思考のパラダイムは、二元論がベースとなっていると言ったが、しかし、二元論的な立場をとらない論者も、近代には見られる。
一元論(モニズム)の論者として、代表的なのは、スピノザBenedictus De Spinozaである。デカルトは1596年生まれで1650年に死去、スピノザは1632年生まれで1677年に死去。約30才の違いがあるが、同時代に生きたといってもよい。直接の面識はなかったようだが、この後見るように、スピノザはデカルトの著作を読んでいた。どちらもオランダに縁がある。デカルトはフランス生まれだが、生涯のメインの部分はオランダに住んだ。アムステルダムや、ライデン、ユトレヒトなどを転々としていた。なぜ、オランダだったのか。当時の思想の中心地は、パリやロンドンやアムステルダムであった。だが、デカルトは、そのような中心地に住むことを選択せず、あえてそこから外れたオランダに隠居し、もっぱら、文通を基盤に思想を展開する生活を送っていた。ひととの付き合いはあったが、細かく張り巡らせた文通のネットワークを通じて、思想界に大きな影響を持った。舞台からには姿をあえて見せずに、少し身を引いた賢者として生きるというある種の自己演出を行っていた(van Ruler, Han 2019)。一方、スピノザはオランダ出身で生涯オランダに住んだ。著書が禁書となったことから大学教授への招聘を辞退するなど、こちらもどちらかというと「身を隠す」生き方をしていた。とはいえ、両者は、著作を通じて多大な影響を思想界に与えた。デカルトの二元論に対して、スピノザは一元論的な見方をしていたが、彼はデカルトの著作から影響を受けている。
スピノザの主著は『エチカ』だが、エチカとは、エティックスつまり、倫理について論じた本だ。
興味深いのは、スピノザは、それを、ユークリッドの「原論」の方法を借りて論じていること。『エチカ』の正式なタイトルは、『エチカ、幾何学の方法によって証明されたEthica Ordine Geometrico Demonstrata』である。ここでいう、「幾何学の方法」が、ユークリッドの「原論」を指す。哲学を数学の方法で論じようとした人は、スピノザ以前にはいなかった。アリストテレスは自然科学の論文も書いているが、それは、基本的には人文の世界を論じる論じ方と同じように文章で書かれている。スピノザの後には、フレーゲやホワイトヘッド、ラッセルが、数学の形式を応用しながら論理を論じることになるが、それは、スピノザより200年以上後のことである。
ユークリッドの原論は、「公理」、「定義」、「公準」、「命題」という体系からなる。スピノザは、それらの枠組み体系を用いて、人間にとっての善や意志の問題を論じようとしているのだから、相当に野心的な試みである。科学として人間の精神を論じることは可能だ、という確信が彼にある。
『エチカ』の第2部では、スピノザは明確にこう言っている。
「人間の精神や生について書く人の多くは、それを、自然の法則が貫く自然物としてではなく、自然の外に存在するものとして考えようとしているように見える。あるいは、自然の中にある人間を、国家の中にある国家のように理解しているようにもみえる。」(De Spinoza 2015: 219)
「自然は常に、同一の自然である。(……)あらゆるものがそこから生じ、そこを起点としてある形相から別のものへと変わってゆくところの自然の法則は、あらゆるものを越えており、つねに同一である。その法則は、一つであり、同一であり、その中で自然が、それぞれの個物としてどのような在り方をしていたとしても、そのそれぞれの個物の中における同一性の視角からとらえられるべきである。つまり、自然の一般法則によってとらえられるべきなのである。」(De Spinoza 2015: 221)
精神の世界と物質の世界は、ひとつであり、精神の世界と物質の世界を一つに結んでいるのが「法則」であるというのだ。どのように二つが一つであるかというとらえ方にも様々なバリエーションがある。スピノザはデカルトを批判して、「デカルトは感情が人間の行動の原因であり、その感情の原因となるものは精神であると考えている。だが、彼はその先については考えが至っていない」と言っている。ここでいう“その先”とは、「自然の法則」のことである(De Spinoza 2015: 219)。
これは、精神の世界と物質の世界を截然と分ける思想ではない。その間にある領域をみとめ、そこから精神と物質が分離してくる過程に注目する思想である。
8 純粋経験と中立的モニズム
その流れを受けたのが、アメリカのプラグマティズムや分析哲学の一部である。かれらは、それを、ニュートラル・モニズムneutral monismという。ニュートラル・モニズムは、精神も物質も同じ世界に属すると考える。
ここまで、一元論と二元論という区分をしてきたが、実は、一元論の中にも、グラデーションがある。
つまり、モニズムにも、物質的モニズム(唯物論的モニズム)とイデア論的モニズムがあるのである。唯物論的モニズムは、この世界は物質の原理だけでできていると考え、イデア論的モニズムは、この世界はイデアの原理だけでできていると考える。
しかし、プラグマティズムのモニズムは、その中道を行く。
そのような考え方を提唱したのは、アメリカの哲学者のウィリアム・ジェームズWilliam Jamesである。この世界の原理は、精神の原理と物質の原理と截然とわけることはできないものによって一元的に支配されていると考えるのである。そのような、截然としない境域から、それぞれ精神の側と物質の側が発生すると考えるのである。ウィリアム・ジェームズは、それを「純粋経験」と言った(James 1904=1987a; b)。ただし、ジェームズ自身は、そのような立場をニュートラル・モニズムとは言っていなかったようである。「ラディカル・エンピリシズムradical empiricism」と呼んでいた(James 1904=1987a)。
ラディカルとは、根源的という意味で、エンピリシズムとは経験主義という意味だから、これは、「根源的経験主義」とも訳せようか。経験主義と対立する語は、「アイディアリズムidealism」である。日本では、通常これは、「観念論」と訳される。カントやヘーゲルの構築した形而上学にもとづく思考体系で、それは、物質世界の問題よりも、観念(イデア)の世界の問題を重視する思考である。
一方、経験主義とは、現実世界の経験、つまり、物質の問題を重視する。ラディカル・エンピリシズムとは、経験主義を根源に突き詰めようとする試みである。ジェームズは、その「経験」の在り方をさかのぼり、その「純粋」な形態を探ることで、そこから精神と物質というものがどのように分化してくるのかを見ようとした。
それを、ニュートラル・モニズムという名前で定義したのは、イギリスの哲学者のバートランド・ラッセルBertrand Russellである。ラッセルは、1914年に『モニストThe Monist』というアメリカの哲学雑誌に発表した論文「知ることの本質Nature of Acquaintance」(Russell 1914)で、経験の意味を問う中で、ジェームズのような、経験を突き詰めることで、精神と物質の分化を見極めようとする立場を「ニュートラル・モニズム」と名付けた。のちに、それは、彼の基本的なスタンスになり、当時最新の物理学であった相対性理論に立脚した物質的世界の分析を哲学的に行った『心の分析Analysis of Mind』(1921)や『物の分析Analysis of Matter』(1927)に結実する。
ラッセルは、その発想を、1914年に、ハーバード大学に講演に招かれたことによって得た(Russel 1956: 125)。ハーバード大学はウィリアム・ジェームズの所属していた大学である。ジェームズは41才で講師に就任した後、65才で名誉教授になるまでほぼすべてのキャリアをそこで送った。ラッセルが、1914年にハーバード大に招かれた時、すでに、ジェームズは死去していたが(1910年死去)、キャンパスのそこここに彼の影響は残っていた。ラッセルが、そのレクチャーを元に書いた論文に「ニュートラル・モニズム」という語が登場するのである。
9 「中」と龍樹、風土学
ニュートラル・モニズムのいう、「ニュートラル」とは、中立的とも訳される。あるいは、中間的とも訳してもよいかもしれない。
この「中間」とは、英語で言うと、ミドルだが、その語源には、古代ギリシア語のメソスmesosという語がある。「中間」という意味である。インド・ヨーロッパ語には、「中間」をあらわす共通の語根としてmedやmeが存在する。そこから派生して、英語には、「ミドル」という語があるし、ドイツ語には、「ミッテル」という語がある。
インド・ヨーロッパ語の一種であるサンスクリット語にも同じ語根を持つ語がある。紀元前4世紀から5世紀ごろの仏教哲学者のナーガールジュナ(竜樹)の唱えた「中論」は、サンスクリット語で「マディヒヤミカmadhiyamika」というが、この中を意味する「マディヒmadhi」にも「me」という語根が含まれている。
もし、ニュートラル・モニズムが「中立的」という場合に、真ん中に立つという意味を強調するならば、「中間論」、あるいは「中間学」という語を当ててもよいことになる。
この中間論あるいは中間学を、英語風に言うと、メゾロジーmesologyとなるが、このメゾロジーという語は、フランスの地理学者・哲学者のオギュスタン・ベルクAugustin Berqueが提唱する「風土学」の英語訳である(フランス語ではmésologie)。とするならば、このウィリアム・ジェームズから由来し、バートランド・ラッセルが唱えたュートラル・モニズムとは、日本の風土学とも共通する視角であるとことになる。
風土学は、日本で、近代に和辻哲郎の著書『風土』によって大成された。和辻の風土学に大きな影響を与えたのは、ハイデガーの思想と西田幾多郎の思想であったが、その西田の思想に影響を与えたのは、スピノザのモニズムであった。また、ラッセルが、「ラディカル・エンピリシズム」を「ニュートラル・モニズム」と言い換えた論文が発表された雑誌『モニスト』とは、東アジアの仏教思想と西洋思想が交差するところにあった雑誌であり、そこには、若き日の、鈴木大拙や西田幾多郎が関係していた。鈴木、西田と、モニズムとは深い関係があるのだが、このことはのちに改めて詳しく見る(☞Section29)。
さて、ニュートラル・モニズムの問題に戻ると、この立場は、真理は、この世界とは別のどこかの世界にあるのではない、という立場である。二元論では、真理は、この現実世界とは別のイデアの世界の中にあると考える。それに対して、ニュートラル・モニズム、つまり中立的一元論は、超越的な真実を想定するのではなく、行為や出来事や言語を通じて、真実というものが構築されてきた側面を考える。この考え方は、プラグマティズムの考え方でもある。
近代西洋思想は、心身二元論だと言われる。だが、しかし、実際は、近代西洋思想の中にも、非二元論の考え方はある。近代西洋思想は二元論であるというのは、均質性を過度に強調しすぎているともいえる。
10 ブラーフマンの一元論
西洋に対比して、アジアの思想は、一元論的だと言われる。とくに、インドの哲学にそれは顕著である。インドの哲学は、西洋の哲学とは、関係なく全く独自に展開してきたかのように思われるかもしれないが、そうではない。アレクサンダー大王の故事を引くまでもなく、東西交流は長く続いていた。思想の面でも直接の交流があり、古代ギリシアの思想と仏教思想の対話は「ミリンダ王経」(紀元前1―紀元後2世紀頃成立)の中に記録されている。アレクサンダー大王を彷彿とさせるギリシアの王ミリンダがインド遠征の際に、その地の僧侶ナーガセンナと交わした存在論をめぐる対話を経典仕立てにしたものである。ミリンダ王は、紀元前2世紀ごろに中央アジアのバクトリアを支配したギリシア人のメナンドロス王がモデルとなっている。
「インド哲学」という語を、仮にインド亜大陸で発達した哲学的思考という意味で用いるならば、その中には、ブラーフマニズム(ヒンドゥ教)、仏教、ジャイナ教における哲学的思考が含まれる。インド思想の専門家も、その特徴として、モニズム的思考が指摘するが(Radhakrishnan 1956: 21ff.; 1957: xxv)、とはいえ、そこにおいてはモニズム的な世界のとらえ方に、プラトンとアリストテレスに見られるような微細な差異も見られる。仏教は、世界は精神があるから成り立っていると考えるが、一方、ブラーフマニズム(ヒンドゥ教)は、世界はブラーフマンという存在を基盤としていると考える。
ブラーフマニズム(ヒンドゥ教)においては、現実のことをブラーフマンという。ブラーフマンは人格神のようなものとしてとらえられる場合もあるし、非人格的な存在としてとらえられる場合もある。しかし、現実と呼ばれているものをブラーフマンととらえることは共通している。すなわち、ブラーフマン一元論である。
インド思想のモニズムの代表格であるといわれる4世紀ごろのベーダンタ哲学のシャンカラは自己・自我(アートマン)そのものが、「ブラーフマン」であるという説を唱えた。一般的には、自己は、自己があることによって発生するといわれている。再帰性である。西田幾多郎は「自己の中に自己を映すことが知るといふことの根本的意義である」と言い(西田1927: 274)、「自覚の底には直に自己自身を見るものがある」(西田1930:121)と言うが、「自己が自己を見る」ことが、自己の発生のおおもとにある。
だが、しかし、シャンカラは、それすらも否定する。彼の主著である『ウパデーシャ・サーハスリー』は、次のようにいう。
「人は、光に照らされている身体を誤って発光体である、と見做すように、見者(=アートマン)であるかのように現れている心(=統覚機能)を、「私である」、「見者である」と考える。」(シャンカラ1988: 46)
見ているもの、つまり、見ている心とは、一見すると「わたし」の本体であるように見えるのだが、しかし、それはまだ本体ではないというのである。
「アートマンは自分自身を想起したり、忘れたりすることはない。その純粋精神は絶えることがないから。意が想起する、という認識も、無知という原因に由来する。」(シャンカラ1988: 60)
アートマンすなわち、自己とは、自己が想起するというようなものではないというのである。
「(アートマンは)行為主体でもなく、対象でもなく、結果でもないから、また内も外も含み、不生であるから、どうして、誰が、それに対して「(これは)私のものである」「私である」という観念を持つことができるであろうか。」(シャンカラ1988: 61)
「その「これ」の部分が否定された認識主体は、虚空のように等質であり、不二(ふに)である。常に解脱しており、正常である。それは私である。私はブラフマンであり、絶対者である。」(シャンカラ1988: 48)
自己とは、一切に遍在するものであり、それは、個物性を超越していると、シャンカラは考える。それを、彼は不二(ふに、アドバイタadvaita)という。ドバとは、サンスクリット語で二を示す。「ダブルdouble」などのヨーロッパの語とも共通する語根を持つ語である。アドバイタとは、そのドバイタにアという否定の接頭語が付加された語である。
不二とは、二にして一であるという意味であり、厳密に言うと、一元論とはいいがたいかもしれない。そこには、二であるという状況がすでにあり、その二であるという状況を一であると見るという見方の問題が含まれている。一であり、同時に、二である。つまり、その時点で、二と一とは動態的に存在しているともいえる。二と一とは同一であることはありえない。同一律に立脚した世界の中においては、二と一とは同一でありえない。しかし、不二という立場は、そのような二つが同一であるということを不という語で示す。
このような立場は、モニズム(一元論)というよりも、デュアリズムという語に、否定の接頭辞である「ア」を付けてア・デュアリズムadualism(不二元論)といった方がよいかもしれない。
11 空(くう)の思想と自己
ブラーフマニズム(ヒンドゥ教)と並んで、仏教が一元論であるといわれるのは、大乗仏教の『般若心経』の「色即是空、空即是色」に見られるように、物質の世界を否定し、あらゆるものを認識の産物であると論じているからである。「色即是空、空即是色」というフレーズは、色(しき)つまり形や物質が空(くう)であり、同時に、空が色つまり形や物質であると述べている。そうして、その二つの領域は「即」という「不二(ふに)」をあらわす連携辞でつなげられている。真の現実とは、「色即是空、空即是色」である。にもかかわらず、人間は、それを正しく認識せずに、色の実在を信じている。その認識の在り方を仏教は問う。
その点で、仏教は、精神の側の原理が強い一元論、つまりイデア論的モニズムのようにもみえる。しかし、詳細に検討すると必ずしもそうは言い切れない側面もある。
先ほど見た、インドのシャンカラは、自己というたましいと、ブラーフマンが、不二つまり、二にして一であることを主張した。そこでは、自己(アートマン)が「ある」ということがどういうことかがラディカルに問われていた。
同じように仏教も、自己があるとはどういうことかを問い、自己や自我を否定する。「無我anātman」である。シャンカラの場合は、自己が自己に属するのではなく、ブラーフマンに属すると考える点で、自己をある種の「有」と考えているともいえるが、仏教の場合は、この自己を否定しようとする。
二つの思想が自己を問いつつも、その「ある」あり方に対するアプローチには微細な違があるのは興味深い。それは、同じインド亜大陸で発達した異なる宗教としてのブラーフマニズム(ヒンドゥ教)と仏教が互いに互いと差異化しつつ共存してきた歴史の産物でもある。
両者の思想は、輪廻やカルマなど基本的な共通性も多いが、しかし一方、自己をどうとらえるかという点における差異もある。微細な差異をお互いに対して主張することで、宗教的アイデンティティを確立してきたのである。
12 苦からの脱却
仏教の世界観の基本となるモチーフは、輪廻からの脱却である。その基本的なモチーフを実施するために様々な認識論が発達した。そこで見られるのが一元論である。つまり、一元論がそもそも発達したのは、ある目的の遂行のためであり、その目的とは、輪廻からの脱却であった。それは、苦からの脱却でもある。輪廻とは苦に満ちた世界に何度も生まれ変わることだが、その苦からどのように脱却するのかが問題となる。
この苦からの脱却を、のちにブッダと呼ばれることになるゴータマ・シッダールタは、論理的に明らかにした。「原始仏典」(パーリ語経典)の中には、彼の説法が集められているが、それらの経典を読めば、彼が、どのように、論理的に、苦からの脱却が可能であることを説明していたかがわかる。
ブッダの説法によると、苦からの脱却は、四つのステップを踏んで行われる。このステップは、認識のステップであると同時に、世界認識の階層構造である。
四つとは何か。まず、第一に、そもそも、苦が存在することを認識することである。その認識を持つことが、苦からの脱却の条件である。存在しないものから脱却できないので、そもそも、苦が存在することを認めることが必要になる。
第二番目の段階は、その苦には、原因があることを認識することである。第一ステップで、苦が存在することを認めたが、存在物には必ず、その存在の原因があるわけだから、苦が存在すると認めると、その原因を認識することも可能である。
第三番目の段階は、その原因の除去である。ある存在物を取り除くためにはその存在の原因となっているものを取り去ればよいことになる。存在を、存在物と原因とに分離することによって、直接的には除去しにくいものも、原因を取り除くという間接的な方法によって、除去が可能になる。
第四番目は、以上のようなプロセスを経ると苦の除去が可能であることそのものを認識することである。苦の除去という、一見すると困難なことも、この四つの段階を経れば可能だとそもそも認識することが、苦からの脱却の最大のポイントである。
こうして言葉にしてしまえば、大したことはないことを言っているようであろう。だが、しかし、今日のように、科学という形で、因果性に関する様々な法則が明らかにされていたわけでもない紀元前5世紀ごろには、このように、クリアに存在物と原因について論じることは、驚異的なことであったはずだ。
この四つのプロセスの発見は、聖なる発見として取り扱われ、後世の弟子たちによって、「四聖諦catur- arya-satya(チャトゥル・アルヤ・サトヤ)」と呼ばれることになった。そうして、シッダールタがこれを解いた説法は、「転法輪品Dammacakkapavattana-vagga(ダンマチャッカパヴァッタナ・ヴァッガ)」と呼ばれて、お経の一つとなっている(渡辺1940:339)。
13 「縁起」というループ
こう見ると、ゴータマ・シッダールタの考え方は、物質的世界との関係性が希薄なようにもみえる。苦からの脱却という四聖諦を見ていると、仏教は、精神の側によった一元論だというのももっともだと思われる。たしかに、それは、こころの世界の中の事象としての世界を前提としている。
しかし、詳細に見ると、このシッダールタの思想は、そうではない。彼の見方によると、たましいとは、たましいだけの領域、つまり、プラトンのいうイデアの領域だけに存在するのではなく、たましいとは、あくまでこの世界の中にあるもの、つまり、物体が存在する世界の中に存在し、その世界との相互作用のなかで存在する。二元論的であるともいえるし、また同時に、その基盤にはあくまでこの物質世界があるので、物質の側によったモニズム的であるともいえる。
それを示すのが、「縁起(えんぎ)」という思想である。この縁起は、シッダールタが、「四聖諦」として明らかにした、苦からの脱却の可能性をさらに展開し、苦の原因とは何かを明らかにする中で発見された。
苦の原因とは何か。それをゴータマ・シッダールタは、認識の世界にさかのぼることで追及する。
その遡及が、論理によって行われるさまも、先ほどと同じように、「原始仏典」の中に収められた彼の説法の中につぶさに記録されている。たとえば、「大本経Mahapadana-suttanta(マハーパダーナ・スッタンタ)」(平等1935、岡野2003a, Davis and Carpenter1903=2015)と「大縁方便経Mahanidana-suttanta(マハーニダーナ・スッタンタ)」(寺崎1935、岡野2003b, Davis and Carpenter1903=2015)というお経を見よう。
これらのお経の中で、ゴータマは、問いと答えを繰り返し、苦の原因を次々とさかのぼって行く。
いわく。
苦はどうして生じるのか。それは、生きるということがあるからである。
生きるということはどうして生じるのか。それは存在するということがあるからである。
存在するということはどうして生じるのか。それは、その存在を永続させたいという執着があるからである。
その存在を永続させたいという執着はどうして生じるのか。それは、その存在への愛着があるからである。
その存在への愛着はどうして生じるのか。それは、その存在が存在していることの感受があるからである。
その存在が存在していることの感受はどうして生じるのか。それは、接触というものがあるからである。
その接触というものはどのようにして生じるのか。それは、六つの感覚(聴覚、視覚、味覚、嗅覚、触覚、意識)があるからである。
その六つの感覚はどのようにして生じるのか。それは、この認識を基盤として物体があり、物体を基盤として認識があるからである。
ゴータマは、ここまでさかのぼった後、「もう、ここから先にはさかのぼりえないnaparam gacchati」という(岡野2003a: 42; Davis and Carpenter1903=2015: 32)。つまり、これが、最終段階である。
この最終段階とは何か。改めてもう一度、それを確認すると、シッダールタは「この認識を基盤として物体があり、物体を基盤として認識があるからである」と述べている。
それは、物体と認識が、お互いがお互いを基盤として存在しているということである。いいかえれば、それは、お互いが原因であり、結果であるという関係である。
図にすると次のようになる。
物体(原因) → 識 (結果)
物体(結果) ← 識(原因)
ここにはループができていることがわかるだろう。
因果性の鎖は、この物体と認識の相互作用において終着点に到達するのである。どちらが因であり、どちらが果であるかがわからない関係性がそこにはあるが、どちらが因で、どちらが果かわからないこの「入れ替わり」関係はループしており、それ以上、因果の連鎖をさかのぼりようがない。
この過程を逆に下ってゆくと、そのような境域がこの世界の底にあることから、六つの感覚が、その六つの感覚から接触が、その接触から感受が、その感受から愛着が、その愛着から執着が、その執着から存在が、その存在から生が、その生があることによって苦が生じるとゴータマはいうのである。
この一連の連環の過程をゴータマは、パティッチャ・サムッパーダpaticca-samuppada(サンスクリットでは、プラティトヤ・サムユッパダpratityasamyuppada)と呼ぶ。
「パティッチャ」とは、「条件づけられている」という意味で、「サムパーダ」とは発生という意味である。文字通りに訳するならば、「条件づけられた発生」である。
一般的な因果性にもとづく発生ではなく、ある特殊な関係性に条件づけられた状態の下での発生というニュアンスがある。
この「特殊な関係性」による条件付けを意味するパーリ語の「パティッチャ」を漢語では「縁」と呼ぶ。
そして、このパティッチャ・サムッパーダは、パティッチャの発生であり、漢語では「縁起」と呼ばれている。
ここにおいて特殊性は、そのそこにある物体と認識が、入れ替わりつつ一体化しているというところから来る。縁起とは、縁という特殊な関係性の元において出来する出来事である。
14 「縁起」と純粋経験
縁起とは特殊なものであるようだが、同時に、それは、普遍的な物でもある。この縁起が起きる場を見ると、興味深いことがわかる。
詳細に、改めて見てみよう。「大本経」に記録されたシッダールタの説教の概要はすでにみたが、それをより詳しく見ることにする。縁起のループに関する部分は下記のように語られている。ワルシュの英訳版を参照しつつ、中村元監修の『原始仏典』全7巻の中に収められた「大本経」の岡野潔の訳を引用する。
「また、比丘らよ、ヴィパッシン求道者はこう考えた。「いったい何があるとき、名称と形態があるのか。何を成立条件として、名称と形態があるのか」。そのとき比丘らよ、ヴィパッシン求道者が根源的に思惟すると、智慧によって〔真如を〕目の当たりにすることがあった。「識別作用(識)があるとき、名称と形態がある。識別作用を成立条件として、名称と形態がある」と。
また、比丘らよ、ヴィパッシン求道者はこう考えた。「いったい何があるとき、識別作用があるのか。何を成立条件として、識別作用があるのか」。そのとき比丘らよ、ヴィパッシン求道者が根源的に思惟すると、智慧によって〔真如を〕目の当たりにすることがあった。「名称と形態があるとき、識別作用がある。名称と形態を成立条件として、識別作用がある」と。」(岡野2003a: 42; Walshe 1987: 211)
「大本経」の語りの構造は、ゴータマの説教の中に、劇中劇のように過去仏とよばれるゴータマ・ブッダ以前に既に存在したとされるブッダが登場する構造となっているが、ヴィパッシンとは、その過去仏となった人の一人である。その人の内的発見として、「縁起」のループが語られる。
ここで重要なことは、このループは、物体と識によって構成されていることである。物体と識が別々の領域にあるのなら、ループは構成されないであろう。それは、一方通行の関係である。しかし、物体と識が「即」的であり、同時に「不二(ふに)」的である関係であるのならば、そこにループが存在することは可能である。なぜなら、「即」であり、「不二」であるということは、それらがつながっているということであるから。つまり、ここに、物体と精神とが未分離な状態が存在する。
先に触れたが(☞Section8)、ウィリアム・ジェームズが「純粋経験」と呼んだのがそのような状態である(James 1904=1987a, Russell 1921: 23-25)。
「わたしの仮説とは以下のようである。もし、世界の中には、たった一つの基本となるもの、あるいは物質しかないのであり、世界に存在するあらゆるものが、それによってできているのであるならば、そして、もし、そのものを「純粋経験」と呼ぶのであれば、われわれが世界を知覚することとは、この純粋経験がいくつかの部分に分かれ、その分かれた部分同士がお互いに関係しあう関係性として説明することができるということである。」(James 1904=1987a: 1142)
「知覚であれ、概念であれ、記憶であれ、想像であれ、そのもっとも始まりの微細な部分にあるのは、単なる純粋経験のかたまりである。そして、それら純粋経験のかたまりは、文脈に応じて、ある場合には客観的対象物としてふるまい、別の場合にはその別の文脈に応じて、心理的状態としてふるまう。」(James 1904=1987a:1147)
ここで、彼は、世界を構成するものがそこから分化してくる境域として、純粋経験を定位している。そうして、その純粋経験が、必要に応じて、様々に分化することで、世界にあるものや、そのものを知覚する精神が成立すると考えている。
彼は、純粋経験という一つのものから、「考えられている“もの”」と「あるものについて考えている“こと”」の二つが分化するともいう(James 1904=1987a:1151)。それは、主観と客観ともいえるが、主観と客観という語が前提するような、二つの別種の異なったものではなく、もともとは一つであったという。
デカルトは、「コギト・エルゴ・スム(われおもう、ゆえにわれあり)」において、思考という主観と、その思考の対象である客観をきっぱりと区別した。思考つまり主観は、「内部」にあるのに対して、思考対象つまり客観objectは「外部」にあるとデカルトは考えた。そうして、その外部と内部とは、切り離されているとも彼は考えた。デカルトに従うならば、わたしの心の内面は、わたしの外部に展開する物理的世界とは切り離されているし、わたしの外部に展開する物理的世界は、わたしのこころの内面世界とは切り離されている。その間に連絡通路はない。精神世界と物理的客観世界は、デカルトのモデルにおいては、全く別の領域にあるのである。
だが、ウィリアム・ジェームズのいう純粋経験とは、そのようなものではない。ジェームズは「客観の方にそれが伸びているか、それとも主観の方にそれが伸びているかの違いというのは、単に、それがどのように文脈と関係しているかの問題に過ぎない」という(James 1904=1987a: 1154)。物理的世界と精神的世界の間には連絡通路があるどころか、それは同じ世界なのだ。
卑近なたとえをすると、純粋経験は餅のようなものである。その餅のような、もともと、ひとつである「純粋経験」が、主観の方向にむかって伸びていけば、それは精神の内部の様々な主観現象として感知され、その餅が、客観の方に伸びていけば、それは、精神の外に在るさまざまな物理現象として感知される。これが、のちに、ラッセルによって「ニュートラル・モニズム」として名付けられることになるジェームズの考え方である。
この「伸びている」と訳した部分は、「外延している」とも訳せる。原語では、「extend」である。この部分は、デカルトを批判した部分であり、その前段で、ジェームズは次のように書く。
「デカルトは、哲学史上はじめて、思考というものが、まったく外部に外延していないと考えた哲学者である。デカルトに続く哲学者は、これを是とした。」(James 1904=1987a: 1154)
ここでいう、「外延していない」という語が「unextended」という語であり、それは、デカルトのいう「レス・コギタンスres cogitans」と「レス・エクステンシアres extensa」の区別に対応している。すでに述べたように(☞Section6)、デカルトは、精神の世界と物理的世界を区別したが、その区別は、「内」と「外」という区別であった。「レス・コギタンス」つまり、「考えられたもの」に対して、「レス・コギタンス」とはその外に広がるもの、というニュアンスである。エクステンドという語は、このエクステンシアという語と同じエクスexという接頭辞を持つ。この「エクス」とは、「エグジットexit」や「エクスポートexport」などに見られるように、「出る」「外」という意味を持つ。つまり、デカルトは、「外」を「内」をきっぱりと分けているのである。
ジェームズは、これを批判して、「純粋経験は外に伸びている」と言う。「すべての外延的物体についてみるなら、それらに関して、それと相応する思考内のイメージは、その物体そのものの外延を分かち持っているはずである」と彼は述べる。つまり、思考の内部と外部はつながっているとジェームズは考える。
この文章の中でもすでに、風土学について述べたが(☞Section9)、和辻哲郎は『風土』の中の、風土の現象のメカニズムに関して述べた箇所で、ハイデガーを引用しつつ「我々自身の有り方は、ハイデッガーが力説するように、「外に出ている」(ex-sistere)ことを、従って志向性を、特徴とする」と述べる(和辻1935=1962:9)。人間の主体は、コギトという思考する領域、つまり、精神の内部にあるだけではなく、精神の外部にも出ている、つまり、身体や環境の中にも、人間の主体があり、それが風土性の基盤にあるというのである。ここには、精神の世界と物質の世界の二元性は存在しない。和辻にとっても、先ほどジェームズの引用で見た「ex」という接頭辞がカギとなる役割を果たしている。ジェームズのニュートラル・モニズムは、「ex」の問題を通じて、風土学にも連なっている。
ゴータマの縁起は、このニュートラル・モニズムの世界の見方と相同的である。名色と識はループを構成しているとシッダールタは考えた。ループを構成しているということは、それは、一つであるということである。二つに見えるが、名色と識とは、一つである。一つであるところの、名色すなわち物体と識すなわち意識は、先ほどの譬えを用いるならば、餅のような状態である。その餅は、やわらかで可変的であるので、ドーナツ形にもなる。そうして、そのドーナツの一方の端が、物体、つまり名色として働くことになり、もう一方の端が識つまり意識として働くことになる。その餅状の物が形成するループに、シッダールタは名前は付けなかった。だが、それは、ジェームズのそれを借りるならば、「純粋経験」と呼ぶこともできるだろうし、あるいはそれを風土と名付けることも可能かもしれない。
15 名色(めいしき)とは何か
さて、縁起における物体と精神の相互関係をもう少し詳しく見てみよう。まずは、「物体」についてである。縁起説では、「物体」はどう表現されているのか。
上記の訳文では「識別作用(識)があるとき、名称と形態がある。」と訳されていた。ここで、「名称と形態」と訳されているのが、物体のことである。これは、パーリ語では「ナーマ・ルーパnama-rupa」という。念のため、当該部分のパーリ語を掲載しておこう。下線部分が、その「ナーマ・ルーパ」である。
「Atha kho bhikkhava Vipassa Bodhisatttassa etad ahosi; kimhi nu kho sati nama-rupam hoti, kim-paccaya nama-rupan ti? Atha kho bhikkhave Vipassissa Bodhisattassa yoniso-manasikara ahu pannaya abhisamayo: vinnane kho sati nama-rupvm hoti, vinnana-paccaya nama-rupan ti.
Atha kho bhikkhava Vipassa Bodhisatttassa etad ahosi; kimhi nu kho sati vinnanam hoti, kim-pavccaya vinnanam ti? Atha kho bhikkhave Vipassissa Bodhisattassa yoniso-manasikara ahu pannaya abhisamayo: nama-rupe kho sati vinnanam hoti, namarupa-paccaya vinnanan ti.」(Davis and Rstlin1903: 32)
「ナーマ・ルーパ」とは何か。「ナーマ」とは文字通り「名前」を意味する。パーリ語はインド・ヨーロッパ語であるので、英語のネームと似た語である。
「ルーパ」とは、形や形態を意味する。あるいは、「器」というような意味を持つ場合もある。これを、鳩摩羅什は、「色」と訳した。「般若心経」に「色即是空、空即是色」というフレーズがあるが、この訳は鳩摩羅什である。そこでいう「色」が、この「ルーパ」である。サンスクリット語では、「色即是空、空即是色」の部分は「ルーパム シューンヤター、シューンヤタイヴァ ルーパムrūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam」となる。
この「ナーマ・ルーパ」を直訳すると、さきほど見た岡野潔の訳のように、「名称と形態」となる。一方、古い漢語を用いると「名色(めいしき)」となる。だが、そのように訳さずに、「個物」と訳される場合もある。ライス・ダヴィッズの編纂した『パーリ語英語辞書』では、「非物質的側面であるナーマと物質的側面であるルーパが結合して、個物性individualityあるいは個物 individual beingを表す語として用いられる」とされる(Davids and Stede 1921-1925=1995: 350)。
「名色」がどうして「個物」になるのか。そのような、変換、つまり「名色(ナーマ・ルーパ)」という呼称でもって、個物をあらわす語法は、提喩(シネクドケ)である。提喩(シネクドケ)とは、ある部分を示す語で全体を表すことである。たとえば、「けもの」という言い方で哺乳類をあらわすが、「毛」という一部で全体を表そうとしているので、これは提喩である。もし、鳥を「羽もの」と呼ぶなら、それも提喩であろう。物体を「ナーマ・ルーパ」ということは、物体を名前と形態で代表させることである。物体には、名前という部分があるが、それは全体ではない。また物体には、形があるが、それも全体ではない。「ナーマ・ルーパ」とは、物体の二つの代表的な部分を提示することで、物体という概念をあらわそうとする語法である。
ここで興味ぶかいのは、物体を代表するものとして、名と形態が選ばれていることである。哺乳類の哺乳類性は「毛」が代表し、鳥の鳥性は「羽」が代表するのだとしたら、物体の物体性は名と形態が代表することになる。
この名と形態とは、名となるものと、物となるものともいえる。名となるとはどういうことか。名となるとは、名付けられえるものであり、アリストテレスのいう、「カテゴリーアκατηγορία」つまり、「述語となりえるもの」であろう(Aristotle1933: 999a15ff, 1017b10ff.)。一方、ルーパとは形態であるが、それは、物そのもの、名付けられる以前の物という存在であろう。アリストテレスのいう「ヒュポケイメノンὑποκείμενον」、つまり基体である。西田幾多郎はこれを、「主語となって述語とならないもの」という(西田1927)。
主語となって述語とならないもののような存在を想像することは難しいかもしれないが、芸術作品などではたくさんの例がある。たとえば、現代アートには、さまざまな、名付けられないものがある。川俣正の「あれ」であり、菅木志雄の「あれ」であり、潮田千春の「あれ」であり、ヨーゼフ・ボイスの「あれ」であり、関根伸夫の「あれ」であり、イリア・カバコフの「あれ」であり、ベ・サンスンの「あれ」である。その「あれ」らは、名付けられることのないものとして存在している。それらは、主語とはなるが、述語とはならない。なぜなら、それらには、名前がないからである。ポイエーシスされたものではあるが、それは名付けられてはいない。
ポイエーシスの根底には、名付けられないものがあり、その名付けられないものとの行為を通じた関係が制作という行為の本質であろう。一方、人間には、行為の世界以外に、認識の世界があり、そこでは、言語が、その名付けられないものに名を与えることになる。
ゴータマ・シッダールタが、縁起の根底を支える「物体」を見るとき、それを「ナーマ・ルーパ」ととらえていることは、縁起とは、そのようなものの世界と識という精神の内部の世界が接触する領域で生じていることを示している。
16 縁起の起点にある「識」
「縁起」において興味深いことは、そのようなものの世界と精神の内部の世界とのカップリング、あるいは組み合わせが、物体と「識」からなるであることである。精神の内部の現象として、感情や感覚や感性など、「識」以外にも様々なものがあるが、物体のカップリングの相手として選ばれているのは、それらではない。
つまり、物体が存在した時、もうすでに、「識」がそこにあるのである。そうなると、識以外の、精神の内部の様々な現象は、識の後に出現する現象であるということになる。
一般的には、感覚や感情や感性などの方が原始的のように思われるから、識よりも先行するように思われるかもしれない。しかし、感覚が感覚として存在するためには、それを認識する必要がある。感覚が、一番の根底にあるのではない。一番の根底にあるのは、識なのである。
この点は、意識を発生史的にとらえる際に重要な視点であろう。進化生物学者、分類学者のリン・マルギュリスは、意識の発生を、生命の発生と同時の現象としてとらえている。彼女は、「動物だけが意識を持つのではない。あらゆる有機体が意識を持ち、あらゆるオートポイエティックな細胞が意識を持つ」という(Margulis and Sagan 1995: 122)。彼女はまた、「最もシンプルに定義すると、意識とは、外界を外界としてとらえることである」という(Margulis and Sagan 1995: 122)。生物とは、外界に反応するもののことであると彼女は定義しているが、外界とは、内部と外部との差異から生じるものである。そのような差異の存在が、意識の存在と関係しているという考え方は、ブッダの教説とも共通する。
彼女が、オートポイエーシスを意識の発生の起点としていることは興味深い。シッダールタの縁起説の「名色」と識との関係も、オートポイエーシス的であるといえる。なぜそうかというと、名色と識との関係のループにおいては、どちらが原因でどちらが結果かという因果関係が存在せず、同時生起的に生起し、自律するプロセスであるからである。この点については、次のセクションでより詳しく見る(☞Section17)。
なお、「原始仏典」の中には、ゴータマのほかの説教も収められており、そのほかの説教の中には、この「物体と認識」の入れ替わり関係を最終段階とせず、それを単なる一段階としてあつかい、最終段階としては、「無知ignorance」があるとするものもある。一般的に、「十二縁起」と呼ばれれているものがそれであり、仏教の教義ではどちらかというと、こちらの説の方が言及される度合いが高いように思う。先ほど引用したシッダールタの説教では「名色」と「識」のループから「先には行かない」と言っていたが、それ以外にも「その先に行く」バージョンがあるのだ。たとえば、「相応部経典」の中の「因縁編仏陀品」などの経典は、そのように説く(林1936, Bhikkhu Bodhi 2000: 533-540)。次のような階梯である(江島1988:443-444, Bhikkhu Bodhi 2000: 519, Buswell and Lopez 2014: 1087-1088)。
老死jaramarana(老いて死ぬという苦しみ)
生jati(出生)
有bhava(生存していること)
取upadana(感受した諸感覚を一つにまとめること)
愛trsna(感受したものの中の一つへの執着)
受vedana(感覚対象物から取り込まれたデータ)
触sparsa(認識器官と対象との接触)
六入sadayatana(目、耳、鼻、舌、身体、意という六つの入力器官)
名色namarupa(形態と物質)
識vijnana(意識、認識)
行samskara(認識と生を形成する力)
無明avidya(根本的無知)
この説によると、最終的に存在する「底」は「無明」である。サンスクリットでアヴィドゥヤavidyaという。無明とは、無知とも言い換えられるが、そのことを認識しないことともいえるのである。そのことを認識しないことが苦に満ちた世界の根底にあるというのである。
苦の起源について異なった二種類の説明が存在することは、矛盾しているようではあるが、しかし、逆にそれは、ゴータマ・シッダールタの思考のリアリティを示している。シッダールタは、当時、苦の底には、名色と識のループがあるという考え方と、苦の底には、無明が存在するという二つの考え方をしていた。そうして、説教ではそのどちらをも語っていた。「大本経」「大縁方便経」としてのちにまとめられる説教では、ループという考え方を語り、「因縁編仏陀品」としてのちにまとめられる説教では、無明を語っていた。現在受け入れられているのは後者の方であるが、それは、底にあるのは一つであるという説明で一見クリアである。そちらの方が、受け入れられているのは、ループという考え方には、一見すると、説得力がないようにも思われるからであろう。だが、それは、後世の解釈であって、思考の現場である説教の場では、ゴータマ・シッダールタは、どちらを採用していたということもなかったのではなかろうか。二つの異なった説を説いた経典が、パーリ語経典の中に見られることは矛盾のようでもあろうが、しかし、それは、シッダールタの説教の現場のリアリティを示しているものでもあろう。
たしかに、底にあるのが「無知」であるとした方が、すっきりとは解釈できる。そこには、入れ替わりのループに見られるパラドキシカルな関係はない。だが、一方で、パラドキシカルな関係とは、根源性を秘めているものでもある。それゆえ、本稿では、nama-rupa bijanaの関係からさかのぼらないとする「大本経」「大縁方便経」の所説を「縁起」説であると解釈している。
17 オートポイエーシスと縁起
ゴータマは、苦の底に「縁起」という物体と認識のループ状の相互関係を見出した。苦とは人間のたましいの問題であるが、そのたましいの問題は、最終的には、物質と認識の間の相互作用の問題であるということを、彼は発見したのである。このようなことを、紀元前400年くらいに生きた人が言語化していたことは驚くべきことであるように思われる。
もちろん、紀元前300年ごろには、プラトンやアリストテレスが、既に哲学体系を打ち立てていたが、それと並行するようにして、インドでは、ブッダがこのような説を唱えていた。それは、プラトンとも、アリストテレスとも異なった精神の世界と物質の世界のとらえ方であった。
サンスクリット語で普通名詞としての「ブッダ」とは、真理を悟った人という意味であるが、先ほど見た「四聖諦」だけでも、当時の人々には、驚くべき真理であっただろうが、更に、その底に「縁起」という、ものの世界とこころの世界の関係性を構造として示したことは、当時の人々に真に驚嘆すべき真理としてとらえられたことは想像に難くはない。
この縁起とは、パラドックスでもあるが、それは、パラドックスであるがゆえに、真理であるという側面もあるだろう。解けない問とは真理そのものでもある。
現に、ゴータマ・シッダールタが発見した縁起のようなループ状の関係性は、今日に至るまで、思考の源泉であり続けている。
たとえば、オートポイエーシスが言う「根源的カップル性fundamental coupling」は、その一例である。先ほど見たように(☞Section16)、生物学者のリン・マルギュリスは、オートポイエーシスを意識の発生と関係づけているが、生命と環境とは切り離すことができない。それは、どちら先でどちらが後で生まれたものではない。それは、同時に生じ、同時に存在し続けるようなものである。ウンベルト・マトゥラナとフランシス・ヴァレラのオートポイエーシスという概念は、彼らがオートポイエーシスを提唱した書籍のタイトルが『オートポイエーシスと認知Autopoisesis and Cognition』であることからもわかるように(Maturana and Varela 1972=1980)、生命と認識の関係について問題にしていた。まさに、シッダールタのいう、名色と識のループそのものを問題にしていたのである。
また、これは、ゲシュタルト心理学における地と図の関係のようでもあるし、エッシャーの絵画の無限に円関する階層性のようでもある。このような関係とは、パラドックスを生み出すものであり、認識の限界でもある。
18 ゲーデル、ニシダ、ブッダ
あるいは、西田幾多郎のいう「自覚」もそれにあたるだろう。彼は、自覚を当為と考え、この当為が「己自身を承認する」ことによって自己が存在する基盤が可能になるという。
当為とは、それがそうならなくてはならないということであるが、それがそうならなくてはならないということには、根拠がなくてはならない。自覚とは、そのような根拠を自己自身が与えるということであるというのである。つまり、それがそれ自身によって根拠となるようなものは、循環や無限でもあるが、しかし、そのような循環であり無限であるものが自己の底にはあるという。まさに、ループであることが問題になっているのである(西田1917: 8-9)。
西田は、これを「自覚」と呼ぶ。彼のいう「自覚」とは、「意識のオートポイエーシス」ともいえるであろう。西田の『一般者の自覚的体系』をフランス語に訳したフランスの哲学研究者ジャサント・トランブレJacynthe Tremblayは、自覚を「オートエヴェイユautoéveil」と訳している(Nishida 2017)。この「オートエヴェイユ」という語は、トランブレの造語であるが、「オート」とは、自己や自動を意味するラテン語起源の語であり、「エヴェイユ」とは、覚醒という語である。
「オートエヴェイユ」を直訳すると「自己覚醒」、「自動覚醒」である。オートポイエーシスは、通常、カタカナでそのままオートポイエーシスと書かれ、漢字後に訳されることはない。もし、これを漢字語に訳すとなると、どうなるであろうか。中国語では、オートポイエーシス理論を「自生系统论(自生系統論)」と訳すので、自生であろうか。
Auto(オート)という語はその意味で興味ぶかい。これは、自動と自己という二つの意味を含む。自動と自己というニュアンスには、どちらも自という文字を含むが、その自の中に、自動と自己という二つのニュアンスが含まれている。自とは、「自ずから」「自ず」とも訓される。そこにおける自の問題とは、まさに、シッダールタの縁起の底にある名色と識のループの問題である。先ほど、ループについて、見る中で、ウィリアム・ジェームズの純粋経験との対比をした。どちらも、モニズムであり、一者を前提とするが、ジェームズの純粋経験にあって、シッダールタの縁起にはないのが、動きである。シッダールタは、名色と識は「即」であり、「不二」であると考えるが、そこには、二者がある。二者があるとき、そこに動きが生じる。この動きこそが、オートポイエーシスの「自動」の側面を駆動する原動力であろう。動きは差異から生じるのである。
とはいえ、その動きは、どちらがどちらを駆動しているかを決定することができない動きである。すでに簡単に触れたが(☞Section4)、クルト・ゲーデルKurt Gödelの不確定性原理とは、このような関係に関する原理である。
不確定性原理における「不確定性」とは英語で「インコンプリートネスincompleteness」とも言われ、その場合、「不完全性」というニュアンスもあるが、ゲーデルのもともとのドイツ語とは少しニュアンスが異なる。ゲーデルが、この原理を明らかにしたドイツ語論文のタイトルを見ると、それは文字通りに訳すると「『プリンキピア・マテマティカ』とそこから派生する体系において、定式として決定不可能な命題についてÜber formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme」と訳される。「不完全性」というわけではなく、「決定不可能unentscheidbar」と言っているのだが、決定不可能は、不完全とは言えないだろう。もちろん、決定可能なことを完全と定義すれば、それは不完全であるが、しかし、決定可能性を持って、完全性であると定義しなければ、決定不可能とは、不完全とは言えないことになる。それは、定義の問題であり、知識におけるパラドックスをどの程度許容するかという問題であろう。
このような関係性の始原について、科学と技術を論じる哲学者のユク・フイ许煜Yuk Huiは、そこから先にさかのぼることは不可能であることそのものが真理であるという。
「あらゆる元因(根源的原因)Urgrundとは、無底(無原因)Ungrundであり、非因(非原因)Abgrundである。あらゆるはじまりは、別のはじまりにとっては終りでもある。」(Hui 2019: 7)
そのような関係性は、リニアな因果性とは異なった体系として、そこに既に与えられているのであり、そのような体系がこの世の中には存在することを認識する必要があると、フイは言う。
ループとは、そのような関係であり、それをゴータマ・シッダールタは「縁起」として、見い出していたのである。
19 苦と身体、無我と外界
さて、シッダールタの縁起説の底にあるものについての記述が長くなったが、あらためて、以上を元に、もう一度、こころと身体の問題を考えてみよう。
ゴータマ・シッダールタの中には、常に、物質の世界の視点がある。たしかに、彼が問題にするのは、苦であり、それは精神の領域であった。しかし、そのような苦が存在するのはまた物質の世界の中である。シッダールタは、それをしっかりと認識していた。
それがあらわれているのが、彼の自己に関する考え方である。ゴータマは、「四聖諦」と「縁起」を元にして、自己の非存在性を説く。ゴータマの思想の一つである「無我」説である。だが、それを論じる際にも、彼は物質的基盤の上でそれを論じている。
「無我」というのは、自己というものは存在しないという考え方だが、その考え方は、無常という考えを導く。自己が存在しないのと同じように、その自己のよって立つところの基盤にある縁起の底にある一方の要素である物質も無であると考えるのである。二元論の考え方で言うと、無我とは、精神の領域が無であることを示し、無常とは物質の領域が無常であることを示す。自己に即して言うならば、精神の領域とは、自己意識であり、物質の領域とは身体である。
身体の無常について、たとえば、「大象足跡喩経」の中でゴータマ・シッダールタは、苦が存在するのは、身体が存在するからであるとして、次のように語る(羽矢2004: 423ff)。
身体とは、四つの要素からなる。四つの要素とは、地、火、水、風である。四つの要素に腑分けしていったとき、その四つの要素は、どれも、壊れたり、消えたり、なくなったり、常に移ろったりする性質を持つものである。これを一言で言うと、無常なるものである。そのような性質を持つものから成り立っているものも、壊れたり、消えたり、なくなったり、常に移ろったりする性質を持つものである。つまり無常なるものである。身体は、四つの要素からなっている。とするならば、身体とは、無常なるものであり、そのような身体をもって、私であるとか、私のものであるとか、わたしが存在するとか言うことはできない。
ここには、強い要素還元主義が見られるが、その要素還元主義とは、近代科学の基礎となったナチュラリズムと通底するものである。アジアの思想はホーリズム的であるといわれるが、しかし、そのホーリズムを支える世界認識は、要素還元主義的な側面もあるのである。
そうして、そのような要素に分解していったとき、無は見出される。なぜならば、要素であるものは常に移ろっているからである。そのような無常なものから構成された身体は、無常である。そうして、そのような無常の身体により存在している私も無常である。自己とは、確固とした存在ではなく、出来事のようなものであって、その出来事の流れの中でその時々に析出されるものを自己と呼んでいるという見方であるとも言えよう。
ここに見られるのは、たましいと外界を含めてひとつの流れと見る見方である。ブラーフマニズム(ヒンドゥ教)のように自己が確固としてあるということを前提としたモニズムではなく、確固とした自己が存在しない中におけるモニズムである。
シッダールタは「わたし」が無であるということを導く際に、地、火、水、風という自然の要素の在り方を参照している。地、火、水、風を貫く法則とは、自然の法則である。「わたし」という身体が地、火、水、風によって構成されているということは、「わたし」という身体は、自然の法則に貫かれているということを示す。
これは、「わたし」という現象の中に、自然の法則が貫いていることを示している。スピノザは「エチカ」の中で、人間の生や精神も自然の法則の中にあることを述べていた。シッダールタは、スピノザより約二千年前に、同じことを考えていた。一元論ではあるが、どちらがどちらによっているという一元論ではない。その意味では、近代の一元論であるニュートラル・モニズムと親和性がある。このような見方をしたスピノザとシッダールタの思想が、鈴木大拙や西田幾多郎の思想の中に流れ込んでいることについては、この後改めて検討する(☞Section29)。
20 知性は、それを解決できるか
たましいと肉体の関係とは、人間の生と死の問題と関係するが、それをどのように、説得的に論じるかは、人類にとって、まだ未解決の問題である。いや、未解決という言い方は正しくないかもしれない。未解決という言い方の中には、解決可能というニュアンスがあるからだが、はたして、この問題は解決可能なのかどうかという問題が、この問題の前に存在するからである。
人間の知性、理性、英知はあらゆるものを論じることができるようになるか、人間はあらゆるものごとを理解できるようになるか、というのは、その問題自体が、哲学的問題である。一般的には、人間の知性、理性、英知はあらゆるものごとを理解できると考えられているように思われる。とくに、科学においては、その傾向は強いだろう。もちろん、今、人間の知性、理性、英知が理解できないことも多い。しかし、それは、人間の理性、知性、英知が開花していないだけであって、人間の知性、理性、英知が全面的に開花したならば、その未開拓の領域は減少し、そして、ついには、未知の領域は無くなるというイメージがあるのではなかろうか。たとえば、それは、コンピュータが大型化し、あらゆる計算が可能になったとするならば、高い精度で未来の天候や株価や人間社会の状況を予想することができるという確信のようなものとも近いだろう。
だが、はたして、人間の知性、理性、英知とは、そのようなものであるのだろうか。人間が求めている問いへの回答というのは、そのような人間の知性、理性、英知が到達できる類のものであるのだろうか。人間の知性、理性、英知を、仮に、哲学的知というならば、哲学的知が進歩したならば、哲学的知は、人間の老いや死とは何かという、未解決の哲学的問いに最終的に答えを与えることができるのだろうか。
これには、否定的な哲学者もいる。分析哲学から形而上学を研究しているアメリカのノートルダム大学のピーター・ヴァン・インワーゲンPeter van Inwagenは、そのような問いには、哲学がいくら進歩しても答えは出ない可能性があり、神だけが答えを知っているかもしれないと言う(van Inwagen 2019: 287-290)。また、イギリスの哲学者のコリン・マックギンColin McGinnは人間の知性は、意識や自己といったものを自己言及的に理解するのには適していないのではないかという(McGinn 1993: 46ff.)。自然史的進化の過程では、認知は、自然物の理解に適したように進化してきた。しかし、意識や自己というのは、自然物とはいいがたい存在である。意識や自己とは、自然物の領域にあるのではなく、こころの中の領域にある。そのようなものを理解することには適していないのではないかというのだ。つまり、そもそも、そのような問いに答えを与える能力が人間の認知には備わっていないので、人は生や死の意味や意識の意味を問い続けてきたのであるという。この二千年間、あらゆる哲学者が議論していても答えが出ないということはその可能性が高いという。
確かに、その可能性も高いだろう。マックギンは未来の哲学もそのような問題は解きえないという。また、彼は、仮に解きえる可能性もあるかもしれないが、その時には、人間は、認知機能のうちの大きな部分を別の機能に置き換えている可能性があるともいう。これは、松沢哲郎が発見した「瞬間的直観像記憶」と言語のトレードオフ仮説を参考にすると、納得できるところだ(松沢2011)。松沢によるとチンパンジーは、床に散らばったビーズ玉のようなランダムなものの組み合わせを一瞬見ただけで記憶できるという。現在の一般人には、それは不可能である。ただ、いわゆる「自閉症」などの人にはそれが可能な人もいる。松沢は、そのような機能をもともと初期人類は持っていた可能性があるが、人間は言語を獲得したので、そのトレードオフとして失ったのではないかという。限られた大脳の要領では、両方の記憶機能を保持することは難しいというのだ。人間が別の認知を持ったとすれば、意識の内部の領域の問題に意識自身が回答を出すことも可能かもしれない。
21 意識の進化と太陽の死
ただ、そこでいう、意識とは、何であろうか。それは、人間の意識であろうか。マックギンのいう未来とは、人間のスケールの未来を想定しているように見える。人間のスケールの未来とは、人間が存在し続けると想定される未来であろうが、その未来の長さは、多く見て、数千年から数十万年規模ではないかと思われる。なぜなら、過去を見ると、人間の過去は数千年から数十万年にしかさかのぼらないからである。もちろん、未来と過去が対象的である必要はなく、数十万年以上のスケールで存在した哺乳類も存在しているので、その長さは伸びる可能性もあるが、しかし、数億年単位の人間の未来を想定することは難しいだろう。
だが、そのような億年スケールの過去を参照し、より長期的に見るならば、未来の意識が、意識自身の自己言及的な理解を増進し、それを完全に理解することに関する別の視角も生まれるようにも思われる。
意識の発生については、諸説がある。先ほどリン・マルギュリスについて述べた。彼女のように、オートポイエーシス的な細胞の登場を意識の発生と考えると、40億年前の原核生物の登場が、意識の発生となる。あるいは、こちらの方がより一般的な見方かもしれないが、脊椎動物が登場し、脳の発生が起こった5億年前のカンブリア紀を意識の発生ととらえる説もある(Ginsburg and Jablonka 2019, Feinberg 2017)。40億年と5億年ではあまりに違いすぎるが、しかし、ここで言えることは、意識の進化とは、数千年というオーダーではなく、億年単位のオーダーであるということである。数十億年単位にわたって、意識は、人間の意識に至るまでの進化を遂げてきた。その過程で様々なことが理解されるようになってきた。そう考えるならば、未来の、5億年後、あるいは、40億年後には、もしかしたら、進化した意識が、この意識とは何か、そうして、その意識を持っている存在にとって死とは何かという問題に対する回答を見出すことも想定できるといえるかもしれない。
とはいえ、太陽の寿命は約51億年と言われている(Walker et al. 2014)。もうすでに、太陽系が誕生してから46億年が経過してしまっているので、現在進化中の「意識」に残された時間は5億年ほどである。これは、人間の死の問題ではなく、その人間をも含む、宇宙の中における、生命の生と死の問題というより大きな問題につながる。
ヴァン・インワーゲンは、神ならば、その神は人間の生と死の問題への答えを知っているかもしれないといった。たしかに、神は、太陽系における生命の死と生を超越しているので、人間の生と死の問題の答えを知っているともいえるだろう。しかし、一方、このような問いは、人間に特有の問いである。神には、生も死も存在しないので、このような問題は神にとっては存在しない可能性がある。ヴァン・インワーゲンは、これは、人間に特有の問いであるのだから、それは、ある特殊な問いであり、その問いへの答えも特殊に見つけられる可能性があるとも言う。
そういわれてみれば、たとえば、宇宙の始まりが137億年前であることは、近代西洋に起源のある近代科学がやっと20世紀後半に見出した問いである(Kragh and Longair 2019)。それ以前には、宇宙が始まってから現在まで、どれくらいの長さであったのかは誰も知らなかった。宇宙が始まってから現在までの長さという問いには、西洋近代という、ある歴史にみて特異な経路のみが答えを出したのだ。たましいと物質との関係に関する問いも、いまだはっきりとした答えは出ていない。だが、この問いも、宇宙の始まりから現在までの時間という問いと似ているとしたならば、それは、いつかは特殊な経路の末に解かれる問題であるともいえる。
22 「ひとり死」という問いーー上野千鶴子
さて、ここまで、たましいの問題を肉体の問題と関係させてみてきたが、それは、たましいの問題を一人の身体の中で考えるものであった。しかし、身体もたましいも一人のものではない。フェミニズムの登場とは、形而上思想に様々な影響を及ぼしているが、その一つに、身体や存在論の革新がある。フェミニズムは、従来の哲学が、「西洋の」、「男性の」、「健康な」、身体を議論の前提としてきたことを批判する。これまでの哲学がそのようなものを前提にしてきたのならば、それをベースに数百年、数千年間組み立てられてきた思考も変容すべきであるという(Heyes 2021)。フェミニズムは、身体とたましいのエピステモロジーを再考する。たしかに、ここまで登場した哲学者、思想家たちは、みな、男性ばかりであった。デカルトの切り離された部屋の中にいたのは、デカルトという男性の身体を持つコギトであったはずなのだが、デカルトはそのことに気付いていたのだろうか。『方法序説』には、暖房の効いた部屋の記述はあっても、彼自身の男の身体に関する記述はない。
そのような視点から改めて、老いと死の問題を考えてみると、そこには、「ひとり」とは何かという問題があらわれてくる。それを考えさせるのが、上野千鶴子の『在宅ひとり死のススメ』である(上野2021)。この本を読むと、死とは個人の出来事であるが、それは同時に社会的な出来事であり、そのあわいにあるものに目を凝らすことの必要性が明らかになる。
『在宅ひとり死のススメ』は、徹底的に形而下的な死に方を考える本だが、そこには、老いと死をめぐる形而上学的な問いが随所に顔を出す。
上野千鶴子は、フェミニズムの日本における代表的な論客だが、ある時期から、フェミニズムをベースとして、老いや介護などの問題に発言を続けてきた。2000年に刊行した『おひとりさまの老後』がベストセラーになっている。
『在宅ひとり死のススメ』においても、『おひとりさまの老後』においても、「ひとり」という語がキーワードになっている。興味深いことに、上野は、「ひとり」を文字通り、一人や孤独という意味では使っていない。
『在宅ひとり死のススメ』のいう「ひとり死」を文字通りにとらえると、死が近づいてきたら一人で山の中にこもったり、あるいは、土の中に埋められた桶の中に入ったりして一人で死に向かうことととらえることもあり得ようが、ここで上野がいう「ひとり死」とは、そのような死は想定していない。「孤独死」という語があるが、ここでいう「ひとり死」とは、「孤独死」とは違う。
上野が言う「ひとり」というのは、家族、あるいは上野のケースに即して言うと、異性間の結婚を前提とした、家父長的な家族を前提とした家族の中における女性の位置を拒否し、ひとりで生きることである。そうして、そのような「ひとり」で生きる存在として、いかに尊厳のある死を迎えられるか――というよりも、死まで生きるか、ということが問題となっている。
23 関係の中で生きる、死ぬ
その際に、上野がとる戦略が、家族の関係ではなく、社会の関係の中で生きることであり、社会のセーフティ・ネットをいかに駆使するかということである。もちろん、セーフティ・ネットとは、使うだけの対象、消費するだけの対象ではない。それは、社会の成員が作り上げていくものであるから、そのようなセーフティ・ネットを作り上げること自体が、のぞましい「在宅ひとり死」の実現に向かうことになる。
彼女の初期に作品に『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(1990)という書がある。これは、「イエ」の問題を、社会の問題であるととらえ、マルクス主義の立場から論じたものだ。「イエ」の中とは、プライベートであり、それは、社会科学ではブラック・ボックスとなっていた。とりわけ、「イエ」の中における、女性が担う領域、就中、家事労働には、社会科学の光が当たっていなかった。社会科学が扱うのは、あくまで公的領域であるとされていたのだが、この『家父長制と資本制』は、そうではなく、「イエ」の中そのものこそが、社会学の対象、つまり、社会であることを明らかにし、そこにおいて、不可視化されていた家事労働を「労働」である、つまり、本来ならば経済学が対価を発生させるものとして扱わなくてはならないものであること、あるいは、経済学が、家事労働を「労働」としてきちんと扱えていなかったことを論じた。
その線上にケアの問題や介護の問題がある。本来ならば、ケアも、介護も、フェミニズムとかフェミニストが論じることと関係はない問題であろう。ケアと介護が、女性と紐づけられているので、フェミニストが論じることに現在は違和感が持たれていないが、そもそも、誕生も、病も、老いも、ジェンダーにかかわらず、人間であるならば、誰にでも生じる問題である。ならば、男性がケアの問題ともかかわるはずであるし、男性は介護の問題ともかかわるはずである。しかし、それが女性というジェンダーと紐づいていることに社会のゆがみがある。上野は、それを学者としてのキャリアを賭けて、是正し、望ましい在り方の実現に尽力してきた。その先にあるのが『在宅ひとり死のススメ』である。
『在宅ひとり死のススメ』には、介護保険制度を用いて、どのように、在宅で望ましい死が迎えられるかが書かれている。望ましい死とは、その瞬間まで、望ましい生を送ることができることである。それは、自己決定だが、しかし、その自己決定は自己だけでは、決定できるものではない。ひとり死とは、じつは、「ひとり死」ではない。それは、社会的な問題である。社会と望ましい関係を作り、その上で、どのように生きるかという問題でもある。それはどのように望ましい社会を作り上げるかという闘争の問題でもある。
上野は、『在宅ひとり死のススメ』の中で、ひとりで死を迎えられるだけの条件が整ってきたという。たとえば、地域包括ケアを利用し、訪問看護や訪問医療を利用することで、在宅で、しかも自己の尊厳を失うことなく、死を迎えることができるという。それは、自己決定の問題であり、自己が自己であることを自己で選ぶという問題であろう。そうなると、そこに、何が「善」であるのか、なにが「自己」であるのか、「自己らしさ」とは何かという問題が生まれる。善の問題も、自己の問題も、自己らしさの問題も、形而上の問題である。『在宅ひとり死のススメ』は、一人で死ぬための物質的基盤を徹底的に問題にする書であるが、それは同時に、心の問題ともつながっている。形而下を考えることなくして、形而上を考えることもできないというリアリズムを提起する。
人はひとりで死ぬことはできるのか。死とは、自らが体験するものではないので、それは、自己の出来事ではない。しかし、同時にそれは自己の出来事である。そこには、様々なレイヤーが交錯している。死とは、たましいと身体との間に起こる出来事である。しかし、現実の死は、たましいと身体という二つの領域の二元論ではすっぱりと切り分けることのできない、様々な中間的レイヤーの存在の中で生じる出来事である。
24 鶴見和子の二つの生
死を自らが体験しているといえるのかどうかという死の形而上学は、死の証言や記録という問題でもある。
死は、自らが体験することはできないが、それを証言し、記録しておくことはできる。だが、仮に、死が証言され、記録されるものだとして、そして、その死を証言するものが、死にゆく者であったとしても、それを記録するのは、死にゆく者本人ではなく、死にゆく者を見守る他者によって行われる。そこに、自己と他者の間に起こっている当事者の死という出来事の特徴がある。そのような当事者としての死、それを記録しようとしたのが、鶴見和子だ。
鶴見和子は、1918(大正7)年に生まれ、2006年に亡くなった社会科学者であり著述家だ。政治家である後藤新平の孫、政治家・著述家である鶴見祐輔の娘として生まれ、兄弟に鶴見俊輔、いとこに鶴見良行がいる。社会学をベースに多様な著述活動を行ったが、とりわけ、アジアにおける近代化、即ち西洋化を問題とし、主流の近代化モデルのオルタナティブとして、「内発的発展モデル」を提唱したことで知られる。長くアメリカで学び、アメリカで学位をとり、上智大学で教鞭をとった。
鶴見には全10巻からなる全集がある。『鶴見和子曼荼羅』というタイトルだ。それは、鶴見が、南方熊楠の思想を「南方曼荼羅」と称し、そのことによって南方の思想体系の再評価が劇的に進んだ故事にちなんでいる。鶴見の思想も、南方の思想と似た全体論的な色合いがある。
この『鶴見和子曼荼羅』が刊行されたのは、1997年から1999年にかけてであったが、実は、その2年前の、1995年に、鶴見は脳出血で半身不随となっていた。77才の時である。当時、鶴見は、上智大学の教授を定年で退職した直後。学者としての人生の集大成の時期に入っていた。
そのような大事な時に、脳出血により半身不随となったのである。全集の刊行は、半身不随となってから企画提案が出版元である藤原書店からなされ、1997年の第1回配本から、1999年の第10回配本まで2年間かけて完結した。最終回配本である第9巻のあとがきには『鶴見和子曼荼羅』の刊行を可能にした人として、4人の編集者と、解説者と、月報執筆者と、装丁者と、顧問の名前が挙げられ、それらのひとびとと「倒れる前のわたくしと、倒れてのちのわたくしとの、共同製作である」と書かれている(鶴見1999: 346)。「倒れてのちのわたくし」と書いているが、しかし、『鶴見和子曼荼羅』は、実際には、倒れる前の鶴見の業績をまとめた著作集である。
しかし、この『曼荼羅』刊行後の鶴見の活躍は、『曼荼羅』刊行以前の鶴見の業績を超えるものでもあった。『鶴見和子曼荼羅』の刊行から、亡くなるまでの8年間で鶴見は、対談集や歌集など10冊以上の著書を出版している。見方によっては、『鶴見和子曼荼羅』全10巻と匹敵するほどの業績であり、あるいは、体の不自由を押しての執筆活動であることを勘案すると、半身不随となってからの活躍の方が目覚ましかったともいえる。
これを評して、弟の鶴見俊輔は、倒れてからの10年間の方がそれまでよりも大きなものを生み出したのではないかという。
彼は、鶴見和子の88年の生涯は、79才以前と以後の二つの生にわかれるという。「率直に言って、79まではあんまり感心していないんだ(笑)」。彼は、黒田杏子との対談でこう言っている(鶴見2008:55)。この79才というのは、『鶴見和子曼荼羅』完結の年である。鶴見俊輔は、しかし、それ以後の人生には「脱帽しています」という(鶴見2008:55)。半身不随となり、それまで用いてきた本や資料やその他のものを使えなくなってのち、鶴見和子は、自らの中にある資源のみを生かすことで、驚くべき作品群を生み出してきたことが、鶴見俊輔を脱帽させている。
このころの鶴見の短歌に「関町の書庫のすべての本と調査資料などを京都文教大学に寄贈する」と前書きのある一首がある。発病後に詠まれたうたをあつめて2000年に刊行された『花道』と題する彼女の歌集に収められている。関町とは鶴見の自宅のあった場所で、東京の練馬区だ。
「我が書庫は我が心眼に移り住み引き出し自在引用は不可」(鶴見2008: 214)
半身不随となった鶴見は、日常生活にも支障をきたすほどであったから、ましてや、重い本を書庫から探してきて、それを引用するという形の「学問」を続けることはできなかった。そこにあるのは、みずからの体験や、経験であり、自らの身体から出てきた言葉でしか勝負はできない。そんな状況に追い込まれ、それを半ば楽しみながら、好奇心を持ちつつ思索を深めたのがそれ以後の彼女の著述になった。
井筒俊彦が若いころ、アラビア語を学んだアラビア人の師は、アラビア思想家でもあったが、しかし、本を一冊も持っていなかったという。学者とは本を持つものではないか、と怪訝な顔をする井筒に対して、その師は「お前は、カタツムリのようにあらゆる本を背負って歩くことができるのか」と言ったそうだ。学者とは、本を持つことが学者ではないし、それを引用することが学者でもない。知識をもとに、新たな何かをこの世に産む出すことが学者なのである。そういう点で、鶴見の本から切り離された最後の数年は真の学者の姿でもあった。
25 死と祭り
倒れてから2年間で、『鶴見和子曼荼羅』を完結させ、鶴見和子は、それまでの人生をまとめた。それ以後は、「それ以前のわたし」とはべつの「わたし」として、鶴見は、その「わたし」を鍛えていった。その「わたし」とは、半身不随となった私であり、それは、老いていく私であり、死に向かう私である。
『鶴見和子曼荼羅』の第7巻は、「華の巻――わが生き相(すがた)」と題されている(鶴見1998)。学者の全集であるから、そこには、基本的には、論文が収められているのだが、そこに、書いたものではなく、生き方を想像させる語である「相(すがた)」というタイトルを持つ巻を忍ばせているところに、鶴見の自負と病に負けないという覚悟がある。
舞踊家の田中泯は、彼が大事にしている言葉として、鶴見の最晩年のインタビューの言葉を挙げている。「わたしは、これから人生最後のもっとも大事なお祭りがはじまるのよ」という言葉である(田中2021)。田中泯は、自らの死をお祭りと例えるその感性に学び、舞踊家である自身も、最後の一瞬まで踊っていられたらと述べているが、鶴見は日本舞踊の心得もあり実際に舞台に立つ舞踊家でもあった。
先ほど彼女の短歌を引用したが、そのうたを収めた短歌集のタイトルは、『花道』であった。「花道」という語は、そこに収録された「萎えたるは萎えたるままに美しく歩み納めむこの花道を」(鶴見2008:223)といううたから採られている。「歩み納める」という語が見えるが、日本の伝統的な舞台では、花道とは、踊り手が舞台にあらわれる道であると同時に、踊り手が舞台から消えてゆく道でもある。鶴見は、明確に、いま彼女が歩んでいる道が、「花道」であることを認識していた。
「人間にとって死ぬことほど晴れがましいことはないと思う。死とは最高のハレだと思う。民俗学でも死はハレだというけれども、最高のハレね、そういう最高のハレに向かって生きたいと思う。本当に自分がよく生きたと思って死ねたら、それが最高のハレだと思う。」(鶴見2001)
83才であった鶴見がこう語った映像が残されている。日本の民俗学において、ハレとケという概念がある。それは、非日常と日常という違いをあらわしているが、ケがケガレとも関係していることで、ポジティブとネガティブな側面をもあらわしているとも言われる。
死とは、ハレとケという用語を用いるならば、その中でハレなのであろうか、ケなのであろうか。
死とは、たしかに、ネガティブなものとしてとらえられる側面があり、それはケに属しているともいえる。しかし、実際の民俗事例では、それは非日常という点で、ハレに属するものでもあった。死とは、ハレとケが裏表一体となった事象である。それは、二元論的に分かれているものではない。たとえば、戦前までは、葬儀と結婚式には同じ白い着物を着るという習慣があった。葬儀とは、結婚式と同じく、ハレの場であったのである。鶴見和子が、死を「祭りだ」と言ったのは、そのような、死のハレの側面をとらえたものであろう。
死は、生命の燃焼である。東南アジアでは、葬儀に際し、死者の遺体を盛大に燃やし尽くたり、蕩尽を行ったりする地域がある。タイでは、スメル山に擬された巨大な建築物をわざわざ作り、そこに遺体の収められた棺を設置し、その建築物ごと遺体を焼き尽くす(林2000)。インドネシアのトラジャの葬儀では、葬儀において盛大に数十頭の水牛の犠牲する儀式が行われる(山下1988)。それは、まさに、祭りである。
祭りとは、一種の死である。そこでは、通常の時間が停止しする。それは、日常とは別種の秩序が支配する時間であり、そこは神の領域であったり、非人間の領域であったりする。死も、同じであろう。そこでは通常の人間の時間は存在しない。とするならば、まさに、それは祭りである。
とはいえ、死を祭りであるととらえる人はそれほど多くないし、そのように死を直視する人もそれほど多くない。鶴見は、そのようにして死を直視した。なんと強靭な精神を持った人であろうか。
26 死者と記録者
鶴見和子は最晩年、半身不随に加えて大腸がんを患っていた。満身創痍であり、慢性的な痛みと闘いながら十指にあまる著作を上梓したのである。
先ほどの短歌でも垣間見られたが、鶴見は、倒れる前は、東京の練馬で一人暮らしをしていたが、脳出血により半身不随になったことで、一人暮らしは不可能になり、ケア付きの住宅に入所した。「ゆうゆうの里」という施設である。この「ゆうゆうの里」は、伊豆、京都、大阪、神戸、千葉にある。
個人的な話になるが、この「ゆうゆうの里」の一つが千葉県の佐倉市にあって、その目の前にぼくが借りていた小さな一軒家があった。ゆうゆうの里佐倉の場所は、もとは、佐倉藩主堀田家が明治になって建造した屋敷があった広大な敷地で、今も、当時の屋敷が残っている。堀田家が同地を手放した後、結核の保養所などに用いられてきたようだが、そこをゆうゆうの里を運営する法人が買い取ってケア付きの入居施設にしたのである。佐倉のそれには、ルイス・カーンの建築を思わせる陰影のある入居棟の建物が立ち並んでいた。旧藩主の屋敷らしく、高台にあり、そこからは一望に大地下の水田が見える。春には桜が咲き乱れるとても良いところである。
鶴見和子は京都にあるゆうゆうの里のケア付き住宅に入居した。転居に関する一切は、弟である鶴見俊輔夫妻が取り仕切った。和子の自宅には、膨大な資料が収められた書庫があったが、それは、ケア付き住宅に持っていくことはできない。先ほど見たように、膨大な資料や書籍は、京都文教大学に寄贈された。そうして、鶴見和子は、「ゆうゆうの里」京都に、気に入った少しのものたちと一緒に移り、その一室を拠点として、リハビリに励みつつ、執筆や対談を行う生活を行うことになったのである。その生活は約10年続き、その間に多数の書籍が生み出されたことはすでに見た。
鶴見和子がなくなったのは、2006年の夏のことであった。死去の日までの日記が、看病にあたった彼女の妹の内山章子の手によって書かれ、それが「姉・鶴見和子の病床日誌」として、鶴見和子の最後の著書である『遺言』に収録されている(鶴見2007=2018)。
2006年5月31日に、鶴見が、圧迫骨折を起こして寝たきりになったことをきっかけに書き始められたその日誌は、6月中旬に、大腸がんの重篤な状況が判明してからは、ほぼ毎日書きつがれ、7月31日の彼女の死で終わっている。そこには、病状の記録、何を食べたか、何を語ったかが簡潔ではあるが、つぶさに書かれている。
「7月29日(土)
「いたーいッ」
「あー、いたーいっ」
足をさするのが一番有効なようだ。足温器を入れ足を温め、頭は氷枕でひやし、口がかわくようなので、ぬらしたガーゼで拭ったり、霧吹きで一寸一吹き霧をかけてしめしてあげたり。(……)7月27日から痛みに対しての姉の戦いが始まった。私の娘はそれを看取りながら、「真っ直ぐに生きたように、真っ直ぐに痛みと闘っているとの印象を受けた。」(29日)
7月31日(月)
下血後の28日、29日、30日、三日に及ぶ痛むとの闘いによく耐えて、31日の朝を迎えた。もう静かにターミナルマッサージをしてあげるしかない。パンパンに張った左大腿部を一生懸命、掌治療してゆくと軟らかくなる。お腹が痛いといえば、お腹に手を当てる。足先のチアノーゼも消える。(・・・)
「しあわせでした。しあわせでした。しあわせでした。ありがとう。」
「いやなこと終わりました。」
そして午後12時23分、息をひきとった。」(鶴見2007=2018)
死の瞬間までもが書かれているこの日誌は、鬼気迫るものがあるが、しかし、同時に、それは、鶴見が自らの生をかけて、自らを示そうとしたことの証でもある。鶴見と親しく、この日誌にも、病床も見舞っていたことが記録されている俳人の黒田杏子は、鶴見を看取った内山が「父と母のところへ姉を無事にお返しできた」と述懐していたという(鶴見2008:68)。鶴見和子は父と母、とりわけ、父に愛された鶴見家の長女であった。その長女たる鶴見の死を看取ることは、まるで、家族の厳粛な儀式のようなものでもあり、同時に、家族の愛を改めて確認することでもあったのであろう。
学者には、公共に対して、オピニオンを示すという役割がある。その役割は、その学者の個性と結びついている。ある人そのものの生き方や実存と結びついている。学者が、公共に向かってオピニオンを発現する役割を選び取る場合、それはある個人がその生き方を含めて発言するという役割を選び取っているともいえる。
鶴見の死の瞬間までを記載した記録が残されたのは、妹の機転によるものであり、鶴見が依頼したことではないかもしれない。しかし、妹にも、鶴見が人生をかけて、人生を人に示すことで公共に対して、オピニオンを発してきたという理解は共有されていたのだろう。だから、彼女は、鶴見の死の瞬間までを記録した。
それは、生の最後の瞬間までをオピニオンとして発信するようなことだったといえる。そのことによって鶴見和子はオピニオンを発信する学者としての生を生き切った。生き切った人の姿を、その最後まで「文」として残すことができたことは、たしかに「無事に」と表現すべきことであろう。それは、死とは死にゆくものの出来事であるだけではないということを示しているように思われる。
27 死と不立文字(ふりゅうもんじ)――鈴木大拙
死後について人は知ることはできない。人は死んだ後どうなるのか。
岡村美穂子の鈴木大拙をめぐる一連のエッセイに、大拙と死、大拙の死後について書かれた記述がある。
鈴木については、すでに何度か触れてきた。鈴木大拙は、日本を代表する仏教学者。1870年に生まれて、1966年に亡くなった。1871年生まれの西田幾多郎とほぼ同い年で、同郷。西田と若いころに知り合った。二十代後半から三十代をアメリカのシカゴで暮らし、その地で有名な哲学雑誌『モニスト』の編集に携わる。1909年、39才で日本に帰国後は、学習院大学、大谷大学の教授として宗教学を広く講じた。大学を定年退職後は、80才を目前にして、1949年ごろに、再度アメリカにわたり、アメリカのコロンビア大学やメキシコ、ヨーロッパなど、世界を股にかけた学者生活を送った。『日本的霊性』など日本でもよく読まれているが、全三巻の『禅仏教論考Essays in Zen Buddhism』など英語での著述活動の方が有名な学者でもある。
鈴木大拙の秘書であった岡村美穂子は、大拙の死を30才の時に体験した。
岡村は、1935年、アメリカのニューヨーク生まれ。日本から移民した両親のもとに育った岡村は、第二次大戦中の日系人収容所の生活なども経験したこともあり、アイデンティティに悩む思春期を過ごしていた。そんな中、コロンビア大学在学中に、同大学での鈴木大拙の講義に触れ、そのまま、鈴木に「弟子入り」のような形で親炙することになる。鈴木が八十代のことである。岡村の両親と大拙との交流も始まり、いわば家族ぐるみでの関係が生まれ、そうして、1960年ごろの大拙の日本帰国に伴い、岡村も来日。以後、十数年にわたって大拙の秘書を務めた。晩年の鈴木の秘書として、鈴木の著作活動や国際的な活躍を支えた人である。岡村は大拙の日常を写真で記録しており、その写真が近年再発見されて、刊行されたり、脚光を浴びている。
岡村の回想録を読むと、岡村は、大拙に死について何度もたずねていたようである。当時、岡村は二十代後半。一方の大拙は八十代から九十代である。二十代後半の岡村にとって、死とは遠いものであったが、同時に、八十代から九十代という死に近い年齢の大拙の近くにいるということで、常に、死とは何かということが頭から離れなかっただろう。
ある時、岡村は
――先生、死とは何ですか。先生、死んだら人間はどうなるのですか。
という問いを鈴木に投げかけた。すると、大拙は当意即妙に
――死とはこれだ
と、舌を出してソファに寝転がって死んだ犬の真似をして岡村を笑わせたという(上田・岡村2002: 264-265)。
だが、これは単に、冗談というわけでもなかった。
大拙の宗教者としてのバックボーンには、西田幾多郎と同じように、禅があった。禅においては、「不立文字(ふりゅうもんじ)」と言って、文字にできないことを体得すること、文字を超えたものを体得することが重視される。真理のなかには、文字、言い換えると言語では表現できないこと、言語の表現を越えたものが存在し、そのような文字や言語を越えたところにある真理を得ることが目指される。
鈴木は、文筆を思想伝達の手段としつつも、一方で、その文筆により伝えられるものの限界を知悉してもいた。岡村への答えは、必ずしも、冗談ではなく、伝えられないものを伝えるある種の手段でもあっただろう。
井筒俊彦も大拙の似たような場面を記録している。「ヌミノーゼ」概念の提唱で著名な宗教学者ルドルフ・オットーが始めた「エラノス」会議という知識人のラウンドテーブルがある。のちには、ユングがそれを引き継ぎ、スイスの湖畔に、世界からの知識人が招かれ、お互いに講義をしあうという集まりだが、そこに招かれた鈴木が欧米からの参加者に「我々が神というところを、あなたは、“無”という。“無”が神なのか」と聞かれた時に、テーブルにあったスプーンをとり上げ、いきなり前に突き出すと、
――その答えはこれだ、わかるかね。
と言い、相手は目を白黒させつつも、納得せざるを得なかったという(井筒2014: 420)。
死とは何かに、死の真似をして答える。
それは、死とは何かとは言語で伝えることができないということでもあり、同時に、生きているものの中に、死んでいるものがもうすでに含まれているということを暗示するものでもある。
岡村は、このことに関して、「ただごとならぬ様子を示していただいたことに気がつきました。(……)ほんとうに死んでいなければ、死人を示すことはできません。先生は、既に死んで、生きておられるのだ、と思うようになりました」と書いている(上田・岡村2002: 264-265)。この記述は、当時を回想した岡村の記述であるが、若かった日の岡村はそれを感じ取っていたのであろう。岡村は、鈴木に日常的に近侍することで、少しずつ、人間をめぐる真理に近づいて行ったのである。
28 松風と素粒子
その岡村美穂子には、鈴木大拙が亡くなった直後のことを回想した文章がある(上田・岡村2002: 33-34)。
大拙が亡くなったのは、1966年7月12日、暑い夏の日であった。
次の日から東京の暑さを避けて軽井沢に移動して執筆に入るという日、鈴木は腹痛を訴える。尋常ではない腹痛に、鈴木は、聖路加病院に、急遽、入院することになる。後で分かったことだが、鈴木は腸閉塞を起こしていた。
その鈴木の看病を徹夜で行う人々の中に岡村もいた。病状は好転せず、多くの人が病室に詰めかける。
「先生、何か欲しいものはありませんか」、という岡村の英語での問いかけに――鈴木と岡村の日常会話は英語で行われていた――、英語で、「ノー、ナッシング、サンキュー」と答える鈴木。
鈴木は、激しい腹痛に苦しみ続けた。
そして、次の日、鈴木は亡くなってしまう。腸閉塞に、89才の高齢が耐えられなかったのである。最後の言葉も、なんども、問いかけた岡村に対して答えた、「ノー、ナッシング、サンキュー」という言葉であった。
発症から、わずか一昼夜、激動の時間の後、急に訪れた死。
そうして、その死の後の様々なことがらの処理。
それを終えた岡村は、数日後、鈴木の暮らしていた鎌倉の東慶寺にある鈴木の庵「松ヶ岡文庫」の鈴木の居室に帰ってくる。
「先生は、あたかも本来いなかった人のように、どこにも跡を残すことなく、消え去られました。私は、なんとか先生の面影をとらえようとして、鎌倉の先生のご自宅で先生が身につけておられた洋服や愛用の文具、写真、本などを取り出してみましたが、しかし、何を見ても、何を触ってみても先生らしき気配は感じられませんでした。(……)
なんとも慰めようもない気分になっているとき、私は外に出てみました。庭には何事もなかったかのように自然そのものでした。玄関のわきでたたずみ、ふと、そばにある松の枝が風に吹かれるのを見た瞬間、「ははあ、これだ。先生は」と本物に再会できた気持ちになれたのです。それ以来、心静かにしていると、あそこにもここにも、道ばたに転がる丸太にさえも先生の姿を見つけられるようになったのです。」(上田・岡村2002: 33-34)
松風の中に死者の面影をとらえるというのは、あまりに詩的であるようにも思えるが、しかし、それは、詩的ではあるが、同時に物理的なものでもある。ひとは、物質でできており、その物質をどんどんと分解してゆけば、それは、原子になる。その原子は、プロトンとニュートロンからなる原子核とその周りをまわる電子からなる。プロトンとニュートロンはさらにクエークと呼ばれる物質に分解されるが、このクエークと電子はそれ以上に分解されない素粒子である。素粒子は、この世界に遍在している。
物質の振る舞いは、畢竟するところ、素粒子の振る舞いからきているというのが、物理学寄りのモニズム(一元論)である。それは、この宇宙、あるいは世界はエネルギーからなっていると考える。アインシュタインAlbert Einsteinの「質料―エネルギーの等価性法則」とは、E=mc2という等式あらわされるが、その内容は、エネルギー(E)は、質料(m)と光の速さ(c)の積に変換されうるというものである。質料と光の速さとは、空間と時間とも言い換えられるであろう。つまり、エネルギーは空間的・時間的な「モノ」に変換しうるという法則である。宇宙全体で見た時、エネルギーと、それが変換された空間・時間とは等価であり、一定の量に収まる。宇宙の始まりに関するビッグバン理論もここからきている。
そのエネルギーはどこに蓄えられているか。それは電子においてである。電子を通じて、エネルギーは物質の間を行き来している。電子は素粒子の一つである。つまり、素粒子がこの世界の在り方を決めていると考えられるのである。
その立場からすると、人間の精神も、素粒子の振る舞いから考えられることになる。人間の新陳代謝とは、エネルギーのやり取りであり、それは究極のところは、電子の移動であるからである。
物理学寄りのモニズム(一元論)は、人間の知覚も素粒子によって規定されていると考える。物理学者のロジャー・ペンローズRoger Penroseは、量子物理学の立場から、人間の意識を分析しようとする試みを行っているが、彼は、人間の網膜は素粒子の一種であるフォトン(光子)を一個だけでも感知することができるという。(Penrose 1990: 400-401, Penrose 1994: 348-349)。つまり、人間の知覚とは、素粒子レベルの知覚であるのだ。
素粒子は、地球上を循環している。いや、宇宙の開始以来、宇宙を循環している。とするならば、死者の身体やその構成要素であった素粒子も、地球上、宇宙内を循環していると考えても差し支えないだろう。
素粒子は宇宙を循環しているが、その分布には、濃淡があるはずだ。死者の存在した場所には、その死者を構成していた素粒子はとりわけ濃厚に存在するだろう。
鈴木のいた場所には、鈴木を構成していた素粒子が濃厚に残っていただろう。鈴木を構成するものとは、鈴木の肉体だけではない。鈴木の着たもの、触れたもの、読んだ本、暮らした家、などなど、それらがすべて鈴木というものを構成していたはずだ。
それらを構成していた素粒子は、それらのものがある「そこ」にただよっていただろう。
だとしたら、岡村美穂子が、松ケ崎文庫の松林を吹くその松風の中に鈴木を構成していた素粒子が含まれていたことを感知したとしても不思議ではない。
29 科学、哲学、宗教、たましい
鈴木大拙は、二十代後半から三十代にかけてアメリカのシカゴに暮らしていた。シカゴで、鈴木は、オープン・コート社という出版社で働いていた。このオープン・コート社はドイツ出身の哲学者・宗教学者であるポール・ケーラスPaul Carusという人物が創立した会社だが、鈴木は、師である禅僧・釈宗演の推薦で渡米し、ポール・ケーラスの助手のような立場で、彼の仏教に関する調査研究を手伝っていたのだ。
ケーラスは、『モニストThe Monist』という雑誌の創刊者であり、編集長でもあった。
『モニスト』については既にふれたが(☞Section8)、現在でも発行されている哲学の著名な専門誌である。タイトルからわかるように、モニストという語は、モニズム(一元論)からきている。「モニズム」に立脚する立場が「モニズムの人」つまり「モニスト」である。物質世界、すなわち、科学と精神世界、言い換えれば宗教や哲学を一つの視座で論じるにはどうすればよいかを考えようとした雑誌である。
この雑誌が創刊された19世紀後半とは、現代科学の興隆が目覚ましい時期であった。と同時に、資本主義の隆興によりグローバルな人的交流が活発化し、様々な世界観が入り組み始めた時代でもあった。そのような時代に、それらを統合しようとする目的をもって発刊されたのが、この『モニスト』という雑誌である。
ケーラスが東洋思想に関心を持ったのも、そのような当時の世界の思想的文脈の中である。彼は、もともとは、ドイツでヘーゲルなどの哲学を学んでいたが、それに飽き足らなくなり、当時、新たに、世界に発信を始めていた仏教の思想へと傾倒を深めていたのである。
鈴木が、この『モニスト』の編集に携わっていたことで、学んだものは多かったはずだ。
『モニスト』には、錚々たる学者が寄稿している。チャールズ・サンダース・パースCharles Sanders Pierce、エルンスト・マッハErnst Mach、バートランド・ラッセルBertrand Russell、ジョン・デューイJohn Deweyなどである。ラッセルとマッハは、科学者でありながら、哲学も論じている。ラッセルがニュートラル・モニズムを定義した論文はまさに、この『モニスト』に発表されていた(☞Section8)。そんな人々の交流の真ん中である雑誌という場に、鈴木はいた。ケーラスとともに仏教の研究をしながら、同時に、鈴木は、モニズムの立場への理解も深めていっていたはずだ。
鈴木と西田幾多郎は、二十代後半から三十代のその時期、熱心に書簡を取り交わしている。西田は当時、まだ金沢の旧制第四高等学校の教授などを務めており、『善の研究』を発表する前である。二人の間では太平洋を越えて手紙が頻繁に往来していた。それを集めた書簡集を読むと、鈴木は、西田にスピノザの肖像画を送ったりもしていたようだ。スピノザは、すでにみたように、17世紀に、精神を自然の法則からとらえようとした「モニズム」の人である。モニズムの論者とは、つまりモニストである。1907年(明治40年)の手紙で、「僕の書斎には仏陀と達磨と君の送ってくれたスピノーザを飾って居る」、と西田は、鈴木に書き送っている(西村2004: 126)。二人の共通の大きな関心は、精神の世界と物の世界をどのように統一的にとらえることができるか、というモニズムの問いであった。
鈴木は仏教者であるので、一般的には、仏教の一元論的な考え方のもとにあるといえよう。仏教の思想とは、「色即是空、空即是色」に見られるように、精神の側によったモニズムである。しかし、鈴木は、オープン・コート社での『モニスト』の編集を通じて、そのような一元論とは異なる、科学にも立脚した、より高次の一元論的な立場をも視野に収め、それを展開していった。
岡村が、鈴木を松風の中に感じたということは、精神の側の一元論でもあり、同時に、物質の側に立脚した一元論でもある。あるいは、それを高次に超えたところにある、一元論といえるかもしれない。それは、鈴木の生の中から生まれた思想である。
鈴木大拙の生がそのようなものであったからこそ、岡村美穂子は、松風の中に鈴木を感じ、それが、彼女に深い安堵と納得をもたらしたのではないだろうか。
引用参照資料
和文文献
井筒俊彦2014「第一級の国際人」井筒俊彦『井筒俊彦全集』6、意識と本質、1980年―1981年、慶應義塾大学出版会。
上田閑照・岡村美穂子(編)2002『鈴木大拙とは誰か』岩波書店(岩波現代文庫)。
上野千鶴子2021『在宅ひとり死のススメ』文藝春秋(文春新書)。
上野千鶴子1990『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』岩波書店。
江島恵教1988「十二因縁」古田紹欽・金岡秀友・鎌田茂雄・藤井正雄(監修)『仏教大辞典』小学館。
岡野潔(訳)2003a「第14経 偉大な過去世の物語――大本経」中村元・渡辺研二・岡野潔・入山淳子(訳)『原始仏典』2、長部経典II、春秋社。
岡野潔(訳)2003b「第15経 生成の由来についての大なる経――大縁方便経」中村元・渡辺研二・岡野潔・入山淳子(訳)『原始仏典』2、長部経典II、春秋社。
佐々木幹郎1986『詩人の老いかた』五柳書院。
シャンカラ1988『ウパデーシャ・サーハスリー――真実の自己の探求』前田専学訳、岩波書店(岩波文庫)。
田中泯2021「コトノハとの出会い 3 田中泯さん」『神戸新聞』2021年6月22日(夕刊)。
鶴見和子1999『鶴見和子曼荼羅』9、環の巻、内発的発展論、藤原書店。
鶴見和子1998『鶴見和子曼荼羅』7 、華の巻、わが生き相(すがた)、藤原書店。
鶴見和子2007=2018『遺言〈増補新版〉――斃れてのち元(はじ)まる』藤原書店。
鶴見俊輔・金子兜太・佐佐木幸綱2008『鶴見和子を語る――長女の社会学』藤原書店。
寺崎修一(訳)1935「大縁経」高楠順次郎(監修)『南伝大蔵経』7、大正新修大蔵経刊行会。
西田幾多郎1917『自覚に於ける直観と反省』岩波書店。
西田幾多郎1927『働くものから見るものへ』岩波書店。
西田幾多郎1930『一般者の自覚的体系』岩波書店。
西村恵信2004『西田幾多郎宛 鈴木大拙書簡――億劫相別れて須臾も離れず』岩波書店。
羽矢辰夫(訳)2004「第28経 象の足跡と四つの聖なる真実――大象足跡喩経」及川真介・羽矢辰夫・平木光二(訳)『原始仏典』4、中部経典I、春秋社。
林五邦1936「相応部経典因縁編仏陀品」高楠順次郎(監修)『南伝大蔵経』13、大正新修大蔵経刊行会。
林行夫2000『ラオ人社会の宗教と文化変容――東北タイの地域・宗教生活誌』地域研究叢書12、京都大学学術出版会。
平等通昭(訳)1935「大本経」高楠順次郎(監修)『南伝大蔵経』6、大正新修大蔵経刊行会。
松沢哲郎2011『想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心』岩波書店。
山下晋司1988『儀礼の政治学――インドネシア・トラジャの動態的民族誌』弘文堂。
渡辺照宏(訳)1940「転法輪品」高楠順次郎(監修)『南伝大蔵経』16下、大正新修大蔵経刊行会。
和辻哲郎1935=1962「風土――人類学的考察」和辻哲郎『和辻哲郎全集』8、岩波書店。
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映像
鶴見和子2001「こころの時代 宗教・人生 回生の道を歩む 鶴見和子 聞き手迫田朋子」、NHKアーカイブス2001年4月8日放送。