寺田匡宏『思考のかたち、雲のかたち』
第6回「走ることとそれ以外」
1
大体週1回、6キロか7キロを走っている。
その間、およそ45分くらい。
時速にすると9キロちょっとになる。
1週間に1度なので、とくに走ることが好きというわけでもないが、しかし、走ることはそれなりに、ずっと頭の中にある。
頭の中にそれがないと、走ることはなかなかできない。
そもそも、走る時間を取ることができないし、体調管理も大切だ。絶不調で走るというようなことはしたくないので、自然と、疲れをためないようにこころがける。
雨が降っている中で走るのも嫌なので、雨が降らないときを選ぶ。それに加えて、他の予定が重ならないときを見つけ出す、あるいは、そういう時間を無理やり捻出する、というようなことを考えていると、結構、いろいろ気を遣うことになる。
結果として、“走ることコンシャス”な生活になるという具合だ。
世の中には、毎日走る人もいて、そのような人は決まった時間に決まって走ることにしているようだ。それはそれで便利ではあろうが、とはいえ、週1回、走れる日を見つけて、それに合わせて1週間の時間を構築していく、というのも、それはそれなりに生活にリズムを与えてくれる。
2
走るのは、決まったコースで、海までを走る。
鉄道を二つ、大きな国道を二つ、大きな高速道路を一つ越えるコースだ。
六甲山のふもとは、ほそい山裾が海岸線と平行してあり、そこに鉄道も道路も集中している。海まで行くためには、それらを越えていかなくてはならない。
第一の鉄道を越えるのは小さなトンネルだ。人がやっと一人通れるくらいの本当に小さなトンネル。「マンボウ」とよばれている。マンボウとは、農業用などの用水路の小さなトンネルのことを指すらしい。何語なのかよくわからないが、大陸系の言葉である可能性もあるようだ。
この地域で鉄道が開通したのは、1874年である。その時掘られたのがこのマンボウで、約150年後の今もそれが使われている。いまは壁面が覆われてしまったが、少し前までは当時のレンガ積みの後が見えていた。らせん状に積まれたレンガで、まさに近代の香りがした。
このマンボウを抜けると片側2車線の国道があり、それを超えると今度は、片側4車線の大きな国道がある。この片側4車線の国道の上空には、高架の高速道路も走っている。その傍らには、鉄道の高架も走っている。
こうして書いていると、ずいぶんと忙しいコースに見えてくる。とはいえ。信号を利用して渡るのは国道の一か所だけで、あとは、すべてアンダーパスである。
人工物の中を走っているなあと思うし、コンクリートだらけの道のような感じもするが、実際に走ってみるとそういう感じがしないのは、鉄道や国道を抜けた後、川沿いの道に出て、最後に、海岸沿いの道を走るからだろう。川沿いの道には、黒松の並木がある。黒松は、海沿いに植えられているイメージが強く、海に向かう道という感じを与えてくれる。
3
このコースは、終着点、というか折り返し点に海があり、その海の浜を走る。
折り返し点に浜があるのは、ちょっとしたぜいたくである。このコースのクライマックス――というほどのことでもないかもしれないが――だ。
この浜は小さな浜だが、本当の浜だ。六甲山から流れてきた川の河口に広がる浜で、それがダイレクトに運んできた六甲山の白い砂が砂浜を形成している。
天然の砂浜が残っているのは、大阪湾沿岸では珍しいだろう。
大阪でいうとずいぶんと南の方に行かなければならないし、神戸の方面でも須摩や舞子まで行かなければ天然の浜はない。ときどき、湾岸高速をドライブすることがあるが、みごとに工業地帯だ。堺あたりにりっぱな海浜の松林が残っているのが見えるが、しかし保存されているのは松林だけで、砂浜までは残っていない。
高度成長期に砂浜を埋め立て工業地帯にするというのはごく自然な流れのように思われているが、それが自然な流れでも何でもなかったことが、近年明らかにされつつある。
東アジア特有の工業地帯立地モデルなのだそうだ。そういわれてみれば、工業地帯をなにも臨海地域に集中させる必要はなく、国内に分散するという発展の仕方もあり得るだろう。事実、内陸に工業地域を形成させたドイツやフランス、アメリカなどは自然の浜をそこまで埋め立てていないのではないだろうか。この臨海部の浜を埋め立てて工業地帯にするというモデルは、日本からアジアに広がっていった。とすれば、環境破壊におけるその罪は大きいだろう。
ともあれ、しかし、この浜は自然のまま残った。六甲山から流れる隣の川の河口にも小さな浜は残っているが、そこは、ほんの十数メートルの浜で、一方こちらはもっときちんとした浜が残っている。
一説によれば、この浜は長く甲子園球場を所有する電鉄会社が所有していて、その電鉄会社が浜の埋め立てを許さなかったからだとも言う。本当かウソかわからないが、その電鉄会社がこの浜を所有していたのは、「甲子園」の砂としてこの浜の砂を使っていたからだそうだ。たしかに、この浜の砂は細かなさらさらした砂でとても気持ちがいい。ぼーっと座ったりしていると、なぜか安らぎを感じるほどだ。
先祖の墓所がこの浜と大阪湾を対角線に反対に隔てたあたりにあって、そのお墓の前のちょっとした空間には海の砂が敷き詰められている。海の砂をお墓に敷き詰めることが一般的なのかどうかはわからないが、なんとなくしっくりはくる。墓石は花崗岩でできていて、砂も花崗岩が長い年月をかけて細かくなったものである。
人間の尺度を超えた、しかし地球の尺度は超えない長期の時間というものがそこには流れている。
4
浜からは、病院が見える。海辺の病院である。
この病院は、野坂昭如の小説『火垂るの墓』に出てくる。スタジオ・ジブリがアニメ化して映画にもなった。
この浜もアニメの中で描かれていた。主人公の少年と妹が水浴びをするシーンである。
真っ青な空に、白い砂、冷たそうなきれいな海。海は今は少し汚れているが、その当時と同じ空と砂は広がっている。
この浜は、また、村上春樹が幼少期に猫を捨てた浜でもある。彼の『猫を棄てる――父親について語るとき』という自伝的エッセイに出てくる。彼の父の勤務先の私立の中高一貫校がこの浜の近くにあり、彼の一家はこの浜の近くに住んでいた。
野坂昭如と村上春樹、二人の日本の戦後文学を代表する作家が描いた由緒ある浜だ。書きたくなる何かがあるのかもしれないが、逆に書かれたことで知的香気に包まれたともいえる。
5
知的香気といえば、作家や哲学者が歩いた場所というのもある。
京都に哲学の道というのがあり、それは、西田幾多郎が思索に倦んだときに歩いた道だといわれる。北白川の小さな疎水のせせらぎ沿いの道だ。
同じようなのとして、オーストリアのウィーンの郊外には、ベートーベン・ガッセというのがある。ガッセはドイツ語で小道という意味だから「ベートーベンの小道」である。山の中の住宅地の、これまた小さな小川のほとりの道。ウィーンに住んでいる友達のところにしばらく逗留していた時に行ったことがある。
川のほとりというのに何かあるのかもしれない。流れる水と思考や創作は相性がいいのかもしれない。そういえば、カントも、運河沿いの道を決まって散歩していたという。ケーニヒスブルクは北海に面した運河の街だ。
海と創作と言えば、ギュンター・グラスだろうか。
彼は北海に面したアトリエを構え、そこで小説を書いていた。うなぎやカニやひらめなどの海の生物が小説の中で大きな役割を占めている。グラスは絵や彫刻も作る人だったのでそれらのモチーフは絵画や彫刻にもなっている。グラスの作品集には、彼が浜辺を逍遥している写真が載っている。
思索と創作には、歩くということに加えて流れるものや不定形のものという要素が必要である。
とすると、ぼくが書くことに倦んだときときにこの浜を走っているというのはそれほど故ないことでもないともいえる。
とはいえ、ぼくが走っているのは、はたして書くことに倦んだからかなのだろうか。そうでもない気もする。いや、そもそも書くことに倦むとはどういう状態なのか、なぜ歩いたり走ったりすることが倦むことと関係あるのか、ということは大きな問題なので、とりあえず、今のところは保留しておくことにする。
6
で、浜に戻ると、この浜はそういうわけで由緒のある浜ではあるが、実際は何の変哲もない浜だ。
白い砂浜とその向こうの海。海は細く、対岸には埋め立て地が見えていて、その埋め立て地の奥には高速道路が走っているのが見える。
砂浜の砂地を走るわけではない。防波堤側の少し固まった「地面」のようになったところを走る。
砂浜が途切れたあたりに、一本の道があり、その道を少し走るとはね橋がある。はね橋というのもずいぶんとロマンチックだが、これは、この狭い海を大型の船が通るときのために開閉できるように造られたものらしい。
大型の船が通ることはまずないのだが、さび付かないように、週末には一日数度開閉する。開閉はゆっくりと行われ数十分かかるので、下手に対岸の人工島にわたってしまうと、再び橋が降りて来るのをじっと待たなければならない。
人工島には工場があり、時間帯によっては、そこで働いている外国の人々が自転車で通勤するのに出会うことがある。
どこかわからないが、東南アジアの国出身らしい若い女の人々。制服の様に、おそろいのピンクやブルーのTシャツを着て、楽しそうに笑ったりおしゃべりをしたりしながら、風のように自転車で走り去ってゆく。
7
研究所の昼休みに走っていたこともあった。
研究所は京都の洛北の山の中にあって、シカやキジやタヌキやサルが出没するところだ。上賀茂神社の裏というか、五山の送り火で「妙」「法」の火が焚かれる山の裏側というか。岩倉から鞍馬へ抜ける道沿いである。自然環境はこのうえなく豊かだ。
一方、その研究所がある山の同じ山ぎわには京都大学の演習林があり、その山の裏側には京都産業大学があり、小川を隔てた向うの小さな山には京都精華大学が所在しているのだから、アカデミックな空気も濃厚にただよっている。まさに、地球環境学の研究をするにはもってこいのところだ。
研究所で昼休みに走っていた時は、南へ向かうコースを走る。北へ向かうコースもあり、そのコースを行くと貴船や鞍馬まで行くのだが、とにかく登りしかないというコースはきつく、平坦地もある南行きのコースを取ることが多い。
研究所の構内を走り降りると、そこは岩倉盆地である。そこを少し走る。山沿いに小さな道があり、そこに入るとほどなくして、圓通寺がある。ここは、比叡山の借景で有名なお寺。一度、フランスの造園家であるジル・クレマンと『縁側から庭へ』の著者エマニュエル・マレスと一緒に来たことがある。この道には、焼き物工房もある。この道では、シカを見たこともあるし、サルを見たこともある。
急な坂があって、その坂を下ると、京都盆地に出る。町の感じが急に生じ、家並みも農村風から町家風に変わる。しばらく走ると、京都市営地下鉄の北山駅に来る。この辺りは、もう普通の都会だ。スーパーやコンビニやショーウィンドを持つショップやビルが並び、コンサートホールがある。わずか15分か20分の走りで山から町、そして都市へと至る。
そこから少し南に走り疎水沿いまで来て引き返す、というのが決まったコースだった。この近くには、洛北高校があり、研究所と同校が提携していた関係で、一時期、毎週1回は演習を持つためこの近くにあった洛北高校に通っていたことがあり、なんとなくなじみのエリアである。
この辺りには、自然学者の今西錦司の家もあったらしいし、作家の山田稔が『北園町九十三番地――天野忠さんのこと』で交友を描いたことで知られる詩人の天野忠の家もあったらしいし、その当の山田稔の家もこの辺りにあったらしいが、結局どこにそれらがあるのかはわからずじまいだった。有名人とはいえ人の家を探すというのはあまり良い趣味ともいえないのでそれほど真剣に探したわけでもなかったので見つからなかったのは当然と言えば当然だが、走りながら探すというのは不可能だし、そもそも、山田稔の『北園町九十三番地』という本もその登場人物の天野忠も山田稔も、走ることとは程遠い内容や人物なので、そういう文脈で想起するのもなんだか不相応な感じもするほどではあるのだが。
この疎水の近くには小さな公園があり、その公園あたりで折り返す。折り返すときに、公園の水飲み場でちょっと水を飲む。
帰りも同じコースで、代わり映えしないが、一か所だけ、大きく変わるところがある。それは、途中の坂道だ。この坂道はかなり急で下りは楽だが、登りはかなりしんどい。というか、走って登るというのがほぼ不可能なレベルの急角度だ。歩きたくはないので、走っているつもりではあるが、しかし、ハタらから見ると、到底走っているとは言えないだろう。坂道にへばりつく尺取虫のような感じで這うように登る。
それを超えたらあとは少し上り坂ではあるものの、ぱっと見にはほぼ平坦な道。そこを走り、研究所に戻り、更衣室でシャワーを手早く浴びる。それが研究所の昼休みの走りのパターンだった。
8
ベルリンで走っていたこともある。
ベルリンには何度か住んだのだが、旧西ドイツ地域の西ベルリンと旧東ドイツの東ベルリンの両方に住んだ。
西ベルリンと東ベルリンの違いは何か。
ベルリンの壁が崩壊してずいぶんと経つのだが、その違いはまだまだ残っている。一番顕著なのは町並みのなかにどの程度小売店があるかだと思う。
旧西ベルリンでは、街並みの中に小さな店屋がたくさんある。通りに並んでいる場合もある。肉屋、パン屋、靴屋、薬局、本屋、花屋、めがね屋、おもちゃ屋、お菓子屋などなど。
しかし、一方、旧東ベルリンには、そういう住宅と小売店のまじりあいというのがほとんどない。住宅は住宅だけが続き、モノを売るのは大規模なスーパーマーケットか百貨店。
そう書くと、なんだか、荒野のようなところにも聞こえるが、しかし、潔いというか、すがすがしいというかそういう感覚があるのも確かである。モノがあふれているのは、なんとなくごちゃごちゃしている。それに比べるとものが制限されえいるのはシンプルである。100年前くらいはモノはもっと少なかったから、もしかしたら、地球全体がそう言う感じだったのかもしれないが、ものがないことは悪くないという気にもなる。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の写真を時々見るが、あそこもそんな感じかもしれない。
店屋は少ない代わりに、東ベルリン地域は地下鉄やトラムや団地が発達している。公共交通網がしっかりと生活をカバーしていると言う感じだ。それは安心感を与える。
旧東ベルリン地域に住んだときの住居は、戦前からある古いアパートをリノベーションした部屋だったが、近くに、団地があった。その団地の前を走り抜けるというコースが、その団地のむこうには、小さな市民週末農園があった。ロシアでいうところの「ダーチャ」である。5m四方くらいの土地が分配され、そこに芝生が貼られ小さな小屋が立てられ、菜園が作られ、リンゴが植えられている。週末にはそこで人々が余暇を楽しむという次第だ。
そのダーチャの地帯のむこうには、草原があった。
まさに、草原で、夏には花が咲き乱れた。
ヨーロッパは夏の降雨量が少ないので、アジアモンスーン地域のような夏草の猛々しいまでの繁茂は見られないとは、和辻哲郎の『風土』の卓見だが、まさに、そんな感じ。
日本でいうと、キスゲやワレモコウやノコギリソウやユリやオミナエシなどといった花が一斉に咲き乱れる。その中を、少し冷たい空気を切ながら走るのはとても気持ちのいいことだった。
9
本格的に走るようになったのは、千葉県の佐倉に住んでいた時のことだ。この佐倉というところは、走ることとは縁が深いところである。
なにしろ、オリンピックの女子マラソンの二人の日本人のメダリストがこの佐倉の地で練習したというところだ。有森裕子と高橋尚子。
なぜ、二人のオリンピックのメダリストが佐倉から排出されたかというと、小出義雄という人物が佐倉出身であったから。
この小出義雄は、「小出監督」と言われた人だ。「監督」というこの役割も不思議な役割であるが、選手を監督し、金メダルを取らせたのがこの人である。
コーチでもなく監督であるところが興味深いが、有森も高橋も実業団の陸上競技チームに属しており、その実業団の監督がこの小出であった。小出は、佐倉出身で長く千葉県の高校の体育教師を務めた。そこで、優秀な陸上選手を排出した指導の腕を見込まれて実業団の監督に就任。そして、そこに有森や高橋やさらに後のアテネオリンピックの金メダリストの野口みずきなどが集まってきたというのが彼のサクセス・ストーリーである。
そして、そのストーリーの場が佐倉であった。
佐倉には、「金メダルロード」というのがあり、それが、彼女らの練習コースである。
この金メダルロードは、当初は、市民の口コミだけだったが、のちには、案内板ができた。当時ぼくが研究員として所属していた博物館の正門前をそのロードが通っていた。
高橋尚子が時々走っていて、事務室の女性が「Qちゃん、見たよ。けっこうデカかった」と言っていた。「デカい」というと語弊があるが、そう、高橋尚子は結構背がすらりと高い人なのだ。僕も一度見たことがある。
あるときは、横町の酒屋の角をふと曲がると、そこに小出監督がいたこともある。そんな環境が、走ることを刺激したともいえるかもしれない。
佐倉は、坂の町である。といっても、尾道や神戸やロサンゼルスのような町全体が坂でできているという町ではない。それに、そもそも、佐倉と言っても広大な市域であり、旧城下町の街の部分とそれを取り巻く広大な農村田園地帯からなる。
関東の地形は巨大である。関西の地形になじんだものにとっては、あまりに巨大で畏怖をおぼえるくらいだ。
この感覚はなかなか分かってもらえないのだが、東京の巨大な谷に驚きを感じるのと同じことだ。
ある時、人類学の石山俊に、九十九里浜で泳ぐのが怖いといったら怪訝な顔をされたが、それと似たような感覚だ。石山は関東人(江戸っ子)である。九十九里の太平洋の波は、瀬戸内海の海になじんだ人間からすると、あまりに巨大すぎてこわい。海水浴で泳いでいても、そこが、太平洋と直結しているというのはどことなく怖いのだ。地球の大きさがダイレクトにわかってしまう感じとでもいおうか、不穏な感じがする。
それと同じように、佐倉の地形は、地球の動きがそのままダイレクトに露出したようなところである。
下総は台地とその大地の下にある低地がくっきりと分かれている。城下町は、城の下にある町と書くが、佐倉では城というのは社会的地位の上下であり、実体は、城の下ではなく、城と地続きにある。城が台地の端に立っていて、その後背地である台地にそのまま城下町が続いているのだ。
佐倉では城下町を外れると、すぐにそこは農村地帯になる。今は住宅地化している部分も少なからずあるが、まだまだピーナツ畑やスイカ畑が広がっている。そんな畑の中を走り、そして、坂を下りるとこんどは広々とした水田のわきを走る。雄大であることは雄大なのだが、雄大なのも考え物だ。走っても、走っても水田が途切れないというのはちょっと困る。42キロを走るマラソン選手にはそれでもいいのかもしれないが、やはり、ある程度小さな風景の中で走る方が達成感はあるかもしれない。
10
どうして走るのかと言われると、返答に困る部分もある。
あるいは、走るのが好きかと言われると、返答に困る。
走るのは嫌いではないが、走るのが好きでもない。もし、走るのが好きであったならば、陸上部に入っていただろうが、陸上部に入ったこともないし、入ろうと思ったこともない。走るのが得意であるかと言われると、走るのは得意でもない。短距離を走って常に1位であったり、マラソンを走って常に1位であったら走るのは得意であるといえようが、決してそんなことはない。
では、どうして走るのか、ということになるが、持続することや、ある程度の距離を走ることは、それほど嫌いでもないし、それほど不得手でもないということはあるかもしれない。
こつこつ走る。ねばり強く走る。
行動心理学によれば、ある物事の達成のためには、全体像を描いたうえで、そのゴールに向かってのプロセスを単純に繰り返していくというのが最も基本になるようである。それらは三位一体となった過程だ。目標が決まらなければ、全体像も見えないし、全体像が見えなければ、それへのプロセスも存在しない。その中で、最も退屈なのは、途中のプロセスだろう。達成すべきものごとが大きければ大きいほど、その途中の単純なプロセスも膨大で単純作業になる。
もちろん、創造的な仕事には、そういう単純作業ではない部分もあるだろうし、創造的イノベーションが必要な現代においては、アドホックに目標自体を変えていくということが重要であるということもあるかもしれないが、しかし、仕事というのは旧来のこつこつ型を本質として持つという側面があることも確かだ。
ぼく自身は、この「こつこつ型」で、飛躍のある人間ではないようだ。思考にしても同じかもしれない。ぼくの思考のパターンは、どちらかというと、延々と低空飛行を続けるというもののようだ。
建築史の村松伸に拙著を贈呈した時、感想に「論理に跳躍がないね~」と言われたことがある。そう言われてみれば、ぼくの文章は、論理がぴょんぴょんと飛び跳ね、常に新しい発想が飛び出る、というような文ではない。同じような内容が、少しづつ変わりながら延々と進んでいく。
それを称して、人類学の清水展には、「内旋的」と言われた。内旋とは聞きなれない語だが、インヴォリューションという英語の訳で、内部に向かって旋行し、外に出ていかないという意味だ。インヴォリューションとは東南アジアの人類学研究のキーワード。インヴォルブから造られた造語だが、ある限られた資源を有効活用するためにそこへの労働の投入を高めることを言う。直接的な対義語ではないが、エボリューションは、外に向かって可能性が開けていくというような含意もある。しかし、一方のインボリューションは内に向かってぐるぐると展開する。それは、発展の一種ではあるのだが、内に向かい、外には出ていかない。内旋しつつ、先へ進む。僕の文章は、そう言われてみれば、確かにそうだ。
外に出るか、内部に向かうか。この問題は人間のタイプの問題として大きな問題でもあるだろう。人間のタイプ分けは心理学や精神医学の重要なテーマであったし、いまもありつづけている。カール・グスタフ・ユングはそれを外向性と内向性と言い、木村敏はそれをアンテ・フェストゥム(祭りの前)とポスト・フェストゥム(祭りの後)の二つの心性として理解した。今日であれば、自閉症スペクトラムと多動性の二つの型として理解されるのかもしれない。
人間は、外に出ていくモチーフと内に向かうモチーフの二つを持つ生き物である。外に向かうモチーフがあるからこそ、人類は、10万年前に、誕生の地であるアフリカから拡散を始めたのであり、いまや宇宙にまで居住域を広げている。
文章でいうと外に向かうこととは飛躍や跳躍がある文であろう。跳躍に満ちた文章を書く人もいれば、そうではない人もいる。跳躍があるというのは、知性のひらめきだとすると、ぼくの文にはそれが欠けているともいえるかもしれないが、しかし、進んでいないわけではない。
11
走ることとと、持続することやねばり強くあることとつながることは、10歳くらいの時に学んだ。
小学生のころだ。このころ、学級担任のシロウ先生という先生がおられて、冬になると「名神を走ろう」という取り組みをやっておられた。「名神」とは、名神高速道路のこと。「名神を走ろう」とは、「名神高速道路を走ろう」というわけだが、それは、別に、高速道路の上を実際に走るというわけではなくて、学校の校庭を走り、その距離を名神の距離に換算して、神戸から名古屋に行こうというちょっとした遊びの要素を取り入れたイベントだ。
走るのは、始業前、各休み時間、放課後である。グラウンドではなく、学校の校舎のまわりを走る。学校の校舎のまわりがどれくらいの距離だったのかはもう定かではないが、一周300mか400mだったのではなかっただろうか。秋になり涼しくなり始めたころからはじまり、そのイベントは冬中続いた。
クラス部屋の壁に模造紙で造ったグラフが用意され、それに走った距離を塗りつぶしていく。高速道路には、出入り口があるので、各出入り口まで来た時には、その出入り口の名前を書いた小さなカードがもらえる。それを台紙に貼り付ける。単純なことだが、励みにはなる。
この「名神を走ろう」になぜか熱中し、クラスで一番になってしまったのだ。どの時点でそうなったのかよくわからないが、いつしかクラスで一番になっていた。
これは不思議なことだった。こちらとしてはごく普通に走れる時間を見つけて走っていただけなのに、そうなってしまったのだ。
よくよく観察してみると、どうやら、ほかの子どもたちは、そのようには行動していない。この「名神を走ろう」は、強制でも何でもないので、やりたい人がやるというイベントだった。多くの生徒たちは、適当に走りはするが、それほど熱心に走るわけではない。いちおうクラスの行事だし、先生自ら走っているので、付き合いはするが、お義理で一日に1周か2周くらい走るだけ。けれども、ぼくは律義に走り続け、そして、気がついてみたら先頭になっていたというわけだ。走るのが早いわけでも何でもないが、ただ単に、持続がそれを導いた。
これは、不思議な感覚だった。自分にとってごく当たり前のことが、他の人にはそれほど当たり前ではない。日々走るというのは、考えてみれば、「辛気臭い」ことなのだ。ぼくにとっては、まったくそんなことはないのだが、世の中には、そう思う人もいる。
以前の職場にアスカさんという女性がいた。この人が、大人になって子ども時代に習っていたピアノを再開しているというのを聞いて、どんな曲を弾いているのか聞いて見たことがある。「ラフマニノフなんか」という答えだった。
「ふーん、いいね。で、どうして、ラフマニノフなの?」と聞くと、「え、華やかでいいやん。バッハなんか辛気臭くていややわ!」との返答。この「辛気臭い」には笑ってしまったが、言い得て妙でもある。バッハの曲も、見方によっては内旋的で、延々と微細な差異の展開が繰り返される。バッハだって、楽聖と呼ばれているし、それはそれで人気があるのだが、彼女にかかると一刀両断である。このアスカさんと言う人は、「今おいしいものを食べれたら、別に長生きせんでもかまへんわ!」とすぱっと言う人だが、まあ、そんな人にふさわしい感覚である。
「辛気臭い」ことは、避けられる。そして、そう思う人の方が多数派かもしれない。
もちろん、ランナー人口は一定程度いるので、そう単純には言えないが、走ることとは、そういう人間類型の二つの極を表すリトマス試験紙なのかもしれない。
結局、ぼくは名神を走り続け、名古屋を通り越してしまった。シロウ先生は2年間の持ちあがりだったから、二年目は「名神を走ろう」は、他の人には「名神を走ろう」だったが、ぼくのためには、「東名を走ろう」になった。たしか、掛川とか御殿場辺りまで行ったのではなかったか。東京までは走ってはいなかったと思う。
12
走ることは運動であり、そのようにとらえられているが、果たしてそうなのだろうか。
走ることとは、運動ではなく、今、運動で走っているような走り方は人類がずっと行っていた走ることとは違う可能性がある。
たとえば、手と足の動き。今の日本人と少し前の日本人の走りは違う。今の日本人は右足と左手、左足と右手を連動させて走るが、少し前の日本人は右足と右手、左足と左手を連動させる。これを「ナンバ走り」というが、時代劇などでは、ほんとうは、このナンバ走りでなければならないらしい。歌舞伎の「勧進帳」では、幕切れの最後の場面で、弁慶が義経を追って花道を走る。その時の走りが、このナンバ走りである。右手と右足、左手と左足を出す。ひらりひらりと踊っているように見えるが、あれは踊りではない。それが、昔の日本人の走り方だったのだ。
近代になって西洋から体育が輸入されたとき、その走りが強制された。その意味では、今の日本人の走りは、近代化した走りである。
あるいは、休みなく走るという走りが正しい走りなのかどうかという問題もある。
同僚の人類学者のダニエル・ナイルズに聞いたのだが、メキシコには、走る民族がいるという。彼らは、走ることを生業にしており、長距離を走ることは苦にならない。そんな民族が、近代式の100キロだかを走るウルトラ・マラソンに出た時興味深いことが起こったという。ウルトラ・マラソンで、欧米の選手たちは休まず一心に走り続けたが、彼らは、少し走っては休み、少し走っては休みして、しかし、着実に欧米の選手を抜き去ったのだという。欧米の選手からすると、いったん抜き去ったのに、しばらくすると休みを取った彼らがひたひたと後ろから迫り、平然と横を走り抜けていくのを見るのは脅威そのものだったという。つまり、走ることとは休みながら走ることなのだ。
そういえば、狩猟採集民の戦略も同じである。アフリカでいわゆるブッシュマンと呼ばれる人々の研究をしている菅原和孝によれば、ブッシュマンの狩猟とは、毒矢を射かけ、その毒矢によって弱った動物を追いかけることである。弱った動物は走り去る。だが、いずれはその動物は弱って動けなくなるのだ。動物と走りっこしても人間は勝てない。しかし、道具を用いて、休みながらであればどれだけ早い動物にも勝つことはできるのだ。
いや、この戦術は、狩猟採集民だけではないだろう。ライオンやチーターやその他の肉食獣も同じ作戦を取っているはずだ。まず忍び寄って一撃を加える。その後は、その獲物を追いかけて、その獲物が弱るのを待つ。走るといっても、速さや持続力をオリンピックのように競うのではないのだ。そこには、休むことが前提とされている。
とすると、走ることに休むことがビルトインされているのは、生物としての人間ということを考えた時、当たり前のことであるかもしれない。
13
走るのは運動であると考えられているが、しかし、走ることは運動かどうかという問題もあろう。
そもそも、運動とはなんだろうか。体を動かすこと。それはそれに違いないが、運動とは少し違うような気もする。
走るのが好きかどうか聞かれると、答えるのに困る、と書いたが、運動が好きかどうか聞かれても、答えるのに困る。
それは、運動とは何かという定義にも関係するだろう。この運動は好きでこの運動はそうでもないというのがある。
走るのは、好きでも嫌いでもない。体操は好きでも嫌いでもないが、出来る体操とできない体操がある。水泳は好き。スケートも好き。野球は好きではない。ゴルフも好きではない。柔道は好き。レスリングはしたことがないからわからない。剣道も同じ。サッカーは好きではなく、バスケットボールも好きではない。テニスはそこそこ好き。卓球は好きではなく、ボーリングやビリヤードにも面白みは感じない。登山は好き。ロッククライミングも面白い。サイクリングも好き。
いろいろ並べてみたが、ルールが複雑なもの、球を使うものはそんなに好きではないようだ。球は、どんな球でも同じ。野球の球、ゴルフの球、ビリヤードの球、ラグビーの球。
お手玉やハッキーサック(南米の蹴鞠の玉)はカラフルで、時々もてあそんだりもするが、そんなに熱中するわけでもない。
球を使う運動には、ルールが複雑なものが多い。バスケットボールのバイオレーション、サッカーやラグビーのオフサイド。それらの存在は理解しているが、それがどういうことなのかはっきりとその場でわかるかと言えば、否である。
学校の運動の授業では、よくそんな状態でやっていたものだなあ、と思うが、なんとなく成り行きに任せてやっていた。
おそらく、そういう現象を理解できないということは、そのようなものに対する認知機能になんらかの阻害要因が働いているのだろう。視覚的情報と運動的情報の連携の欠如かもしれないし、球体に対する動態的認知の低位かもしれない。
この「よくわからないけどなんとなくやる」という状態は不快でもある。
その不快感は、算数や数学の原理がわからないのに、問題を解く、というのに似ている。小学生の頃はそうでもなく、高校の頃は全くそれを克服したが、中学生の頃は数学が全く分からずにとても困った。
まるで、目隠しをして高速で森の中を走っているという感じだった。どこに木があるかわからず走ることは怖いうえに、不快である。どうしてそこから抜け出すことができたのかよくはわからないが、しかし、とにかく、理解できない状況でとにかく何かをやることを強制させられるというのはストレスがたまる。『ケーキの切れない非行少年たち』という本がある。円形のケーキの三等分の仕方がわからない人たちがいる。簡単なことなのに、それがわからない。原理を理解したらすっとわかるのにその原理のありかがわからない。それはものすごく不快な体験だ。
算数や数学とは、システム的思考に関わる。球を使う運動のルールというのもシステム的思考を原理としたものであろう。とすると、それがわからないということは、システム的思考と主体の間に何らかの齟齬があるということかもしれない。
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道具はシステムであるから、主体とシステムとの関係とは、道具と身体の関係ともいえる。
研究所で毎年、年始にもち米の産地から人が来て、餅を搗くというイベントが行われるが、その時、所員も杵を持たせてもらって餅を搗く。
ある年、ぼくが餅をついているのを見た石山俊が、「一番下手だった」と言った。正確に言えば、彼は、もう一人下手だった人の名を挙げたのだが、その人が誰だったのかをここに書くことはできない。研究所の最高幹部陣にあたる人だからである。
何が下手なのか。石山が言うには、ぼくの餅のつき方は、杵を「振り下ろして」いるのだという。
そうではなくて、杵は自重で落ちていくのだから、搗き手がするべきことは、振り下ろすのではなく、その自重で落ちてゆく杵の方向性を定めてやるだけでよい。
そのためには、杵の柄をやみくもに握りしめるのに意味はない。杵の柄を右手と左手を適切な間隔を開けて持ち、杵の重心が感知できるようにするのが肝要である。
さらに、体の構えも重要だ。杵の柄を持つ手を通じて体が杵の重心をうけとめ、それを効果的に臼の中にある餅の上に着地することができるような構えをする。
それが正しい餅搗きの仕方だとすると、力を込めて餅の上に杵をたたきつけていたぼくの餅つきは、それとは正反対のことをしていたということになる。
石山は、学生時代に、大工や左官や植木など様々な身体技法を用いるアルバイトをこなしてきた人である。体のふるまいというものに鋭敏な感覚を持つ。そんな石山に説明を受けると、なるほど、と思う。
と同時に、そう言語化してもらわなければ、それに気づけないということは、身体認知と知的認知の間に何らかの疎隔があることかもしれないと思う。
石山は、「まあ、慣れもあると思うけど」とフォローしてくれたが、慣れというのは大きいかもしれない。
車の運転にしろ、体操にしろ、水泳にしろ、登山にしろ、体が覚える、というのがある。車の運転を習った時、なかなか上達しなかったので、停車中の車に座って、左足でクラッチ操作をし、右足でアクセルとブレーキを踏むという動きができるようになるまで何度も何度も繰り返した。いまや車はからだの外延ともいえる。狭い道を曲がることもできるし、後退して車庫に入れることもできる。
あるいは、言語の習得も同じである。舌がその言語の発音をおぼえる。
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車を運転することとは、体の外にもう一つの体ができるようなものである。外延された身体としての車で走る。だが、もし、車が体のようなものだとしたら、車のような体もあるかもしれない。体が車だとしたら、では、体の中で、体はどこから始まるのか。
たとえば、体であってもうまく使えない部分がある。ボーリングの玉をうまく投げられないとき、はじめて習った中国語の反り舌音を発音できないとき、体は、ちょうど、車を運転し始めた時の車のように、思い通りには動いてくれない。としたならば、その時の体は、ぼくの体でありながら、ぼくの体ではないことになる。その時、では、体とは何なのだろうか。
デカルトは、近代二分法の開祖であり、かれは、主体と客体を分けた。主体は心、客体は、心以外である。その主体をラテン語でレス・コギタンスres cogitansと言い、外部はレス・エクステンザres extensaという。彼の主著の一つである『省察』(1641年)の中の「第6省察」で提唱され、のちに『情念論』(1649年)で展開された。有名な「コギト・エルゴ・スム(われおもう、ゆえにわれあり)」の「コギト」が提唱されたのが、1637年刊行の『方法序説』であるから、彼の思想は少しずつ前進していたのだ。もっとも、正確に言うと『省察』の中で、この二つは、ラテン語では書かれてはいないが、彼の「コギト」にならって通常、ラテン語が用語となっている。で、このコギタンスとは考えるということ、エクステンザというのは外延という意味である。
外に広がるもの、という意味での外延なのだが、しかし、この外延は、どこの外部に広がっているのか。
外延があるのなら、内部もあるはずだ。それは、心であるともいえる。たしかに、この体をあやつっているものは、心だとか精神だとか言われ、それは内面と言われることもある。だが、しかし、その心はどこにあるのか。内面と言った時、その内は、どの外によって囲われているのか。
内面は脳にあるといえるかもしれない。しかし、脳は、繊維状の脳細胞の集合であって、その繊維状の脳細胞の集合である脳が内部であるとは言い切れない。というのは、繊維状の細胞は脊髄にまで伸びたり、他の細胞とのネットワークを持っていたりするから、どこまでが脳であり、どこまでが脳でないかというはっきりとした区別はつかないはずだからである。
となると、個々の細胞が内部か。しかし、個々の細胞も内部を微細に見ていくと、細胞核や遺伝子やミトコンドリアやその他のタンパク質の集まりでしかない。
それらが集まったものが心であり、内面であるというのが妥当なところであろうが、実際には、そのような集まったものの境界を決めることはできない。とすると、それは存在しないものでもあるのであり、ということは、内面が存在しないということになる。
内部が存在しないのに、外部だけが存在する。これはパラドックスである。心とその外部には、そもそもパラドックスが存在するのである。あるのにない、ないのにある。
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だが、そのパラドックスとは、まさに、存在そのもののパラドックスでもあろう。
先ほどは脳内をどんどんと細部に微分していったが、さらにその微分を続けるとどうなるのだろうか。
そこには細胞があるが、その細胞はタンパク質からなり、そのタンパク質は原子からなり、その原子は、陽子や電子や中性子からなり、その陽子や電子や中性子は、素粒子からなる。そのような微細なレベルにおいては、通常知られている物理現象とは異なる現象が見られることはよく知られている。例えば、陽子や電子や中性子のふるまいを説明するのは、ニュートン物理学ではなく量子物理学だ。量子物理学の理論には、シュレディンガーの猫という仮説があり、そこでは、猫は生きていたり、死んでいたりして、一意的に状態が定まることはない。量子とはつまり、状態が確定できない状態である。
さらにその下の素粒子レベルになると、まだふるまい自体がわかっていないようだ。超弦理論などの探求が続く。
量子物理学も超弦理論も、どこか遠い世界のようだけれども、じつは、陽子や電子や中性子や素粒子は、どこか遠い世界の話ではない。それはすでに、ぼくの体の中に存在するのだ。ぼくの体を微分していったとき、その体は、あるともいえないし、ないともいえない状態の陽子や電子や中性子や素粒子に還元される。
もちろん、陽子や電子や中性子や素粒子は最小の単位であり、そんなものが、中程度の規模を持つ目に見える体とは関係ないということもできるだろう。
けれども、陽子や電子や中性子や素粒子とぼくの体の関係は、陽子や電子や中性子や素粒子と宇宙全体の関係から比べると、ずっと密接な関係であるはずだ。
それに、あらゆるものが陽子や電子や中性子や素粒子からなっている以上、全てはその陽子や電子や中性子や素粒子のふるまいの影響をどこかで受けている。
あるのにない、ないのにある、が起こること自体、その影響だと考えられないだろうか。
そのようなものがない世界ではそのようなもの自体を想像することもできないが、そのようなものが少なくともある世界ではそのようなものを想像する余地はある。
体は外延である。だが、体は外延ではない。
ぼくもものである。ものにしかすぎないぼく。
そう気付いた時、ぼくはすでに、そのような世界の一端にいること示しているだけであり、体の外延がどこであるかがわからないことはそのような世界のあり方の一部であるのかもしれない。