寺田匡宏『思考のかたち、雲のかたち』
第10回「ぼくの聖地論――光と音と開かれ性について」
ぼくにとっての聖地というのがこの地球上に今のところ二つあるのだが、その二つについて書いておきたくなったので書いておくことにする。書いておくとは、その土地がどういう土地なのかを書くということであり、それは、ぼくの中の聖地を文章にして、文章という形として残しておくということだ。
ぼくの聖地は、そうやって、残しておきたいと思わせるものがある。そうやって残しておきたいと思わせるからこそ聖地なのであろう。それは、自分とその聖地とのあるつながりを確認することでもあるかもしれない。
もちろん、その聖地は、ぼくにとっての聖地であるけれども、一般的に聖地と言ってもよいところなので、あらゆる人にとっての聖地であるという可能性が開かれている。だから、わざわざ、それを聖地と書く必要もないのだが、しかし、仮に、そこが、あらゆる人にとっての聖地であっても、ぼくが、その聖地の聖地性を、自分で、そこに行って感じたということが大事なのだ。
それは、ぼくの中では、ある感情にとどまっている。感情なので、明確に、なんらかの筋道があるわけではないのだが、その感情を書き留めておきたいと思う。そこに行ってから、時間もたった。だが、時間がたったにもかかわらず、その感情がこうして書いているとよみがえってくるというのも聖地の聖地たるところかもしれない。
いまのところ、ぼくの聖地へのなんらかの内面に存在するものは、感情にとどまっている。だが、この文章に「論」というタイトルを付けておいた。論というからには、感情だけを書いているのでは論にはならないが、感情を書くことで、その感情のよって来るところも、浮かび上がってくるのではないかという思いもある。そんなこんなで、とりあえず書き始めてみることにする。
*
ぼくにとっての聖地のひとつは、アテネのアクロポリスだ。ここは、神殿があるところなので、聖地であるのは当たり前なのだけれども、ぼくは、そこに神殿がなくても、そこは聖地であるような気がしている。神殿の有無を越えた、聖地性があると言えようか。そのあり方は、ぼくにとってとても親密な感情をもたらす。ぼくの聖地といっているのは、ぼくが、その地と関係を持ち得ていて、そこを特別の場所だと感じることができたということでもあろう。そのような特別な場所であることを、その場所自体が感じさせてくれるというのは、その場所の持つ何かであろう。
アテネに行ったのは春だった。いや、冬が終わり春が来る直前。まだ寒さが残っているが、日差しには春が来ているようなころあい。ミモザが咲き始めるころだったと思う。
フロイトは、アテネになかなかたどり着かなかったという。彼は、その経緯を書いたエッセイを書いている。ウィーンに住んでいたフロイトは、イタリアのトリエステまで来て、そこからアドリア海を南下して船でアテネに行こうとした。だが、アテネ行きの船が見つからなかったり、見つかっても、チケットが取れなかったりという悶着があって、なかなか、アテネに行くことができなかったというのだ。フロイト自身が、それを分析するところによると、それは、彼のアテネに行くことへの心理的な抵抗が、環境に外化し、彼をアテネに行かせることを妨げていたのだという。
アテネはフロイトにとって、長年のあこがれの地であった。あこがれの地に行くことは、あこがれが実現することである。あこがれが実現することは、望ましいことでもあるが、一方、望ましくないことでもある。なぜなら、あこがれという理想化されたものが現実になることは、幻滅をもたらす危険性をはらむからだ。フロイトが、トリエステで、なかなかアテネ行きの船に乗り込むことができなかったことは、彼の中にある、現実のアテネを見ることで、味わうかもしれない幻滅を避けたいという、隠された心の中の逃避によるものが、環境に外化し、外から彼に働きかけたのだと、フロイト自身はいう。
ぼくは、こうして、アテネをぼくの聖地だと言う、ある種のオマージュの文章を書いているのだが、アテネに行くまでは、フロイトのように、アテネに思い入れがあったわけではない。だから、ぼくは、アテネに何の抵抗もなく着いた。むしろ思い入れは、行った後の方が強いのかもしれない。だから、その思い入れが強い分、アテネは、ぼくの記憶の中で理想化されているともいえる。理想化されたアテネが現実となることはもしかしたら、ぼくにとって避けるべきことかもしれないのだから、もし、ぼくがもう一度アテネに行くとしたら、アテネ行きの船、あるいは飛行機には、ぼくはなかなか乗り込めないのかもしれない。
アテネに来て、シンタグマ広場に宿をとった僕は、ぶらぶらとアクロポリスの丘に歩いていくことにした。シンタグマ広場とは、それにしても、なんという名前だろうか。そんな名前が存在することが、ギリシアのギリシア的というか、ギリシアの歴史的特別さを醸し出している。シンタグマとは、パラディグマと並んで、言語学の述語として著名だ。言語学では、パラディグマが範型論、シンタグマが統辞論と言われる。ギリシアと言えば古代ギリシアであり、言うまでもなく、ヘラクレイトス以来、ソクラテスやプラトンやアリストテレスに至る大哲学者を輩出してきた地だ。言語学以外でも、今日の学術用語には、メタフィジクスやオートポイエシス、オイコノミアなど、ギリシア語そのままや、ギリシア語起源の語が用いられることも多い。あのアテネに実在するシンタグマ広場は、もし、それが言語学の用語だとすると「統辞論広場」ということになる。そこには、地下鉄のシンタグマ駅もあった。「統辞論駅」である。アテネの市民には、地下鉄の路線図が、言語学の相関図のように見えてしまわないだろうか。
ぶらぶら歩いていると広場に出た。アゴラだ。小さめの四つ辻という感じだ。日本で言うと、町の神社の前のちょっとした人だまりというような感じがぴったりくる。そんなに大きな広場でもないのだが、これがまぎれもなくアゴラだった。アゴラは、プラトンの書くところのソクラテスの対話論を読んでいるとよく出てくる。哲学者たちが対話を交わした場所だ。こんなところで、ソクラテスが、彼の弟子や友達たちと議論を交わしていたのだ。市井の人々の行きかう中で、彼らが語り合う姿が生き生きとそこにあるような気がする。
アゴラの向こうには、アクロポリスの丘への道が続いていて、その道のかたわらに、回廊が復元されている。詳しい由来は忘れたが、哲学者たちが議論したという回廊だとか。その回廊を横目に見ながら緩い坂道を登って行くと、アクロポリスの丘の登り口に取りつく。
アクロポリスの丘は、「丘」といわれているけれども、感じとしては、エアーズロックのような巨大な岩のような感じがする。もちろん、一枚岩のそんなに大きな岩があるはずもないのだし、土壌におおわれて、樹木も生えているので、岩ではなくて、山や丘のカテゴリーに属するのだろうが、しかし、感じとしては山や丘というよりも岩のような感じがするのだ。
エアーズロックが、唐突にどこかから降ってきたようにして、巨大な岩だけが平地の真ん中に突然あるように、アクロポリスの丘も、山脈だとか、丘の連なりというような文脈を持たずに、その突出だけが、平地の真ん中に、ぼこっと存在する、という感じがある。
ギリシアの古代神殿や古代彫刻がすべて大理石でできているのは、大理石がギリシアのデフォルトの岩であるからなのだが、ギリシアでデフォルトの岩が大理石であるから、アクロポリスの丘も、大理石でできた巨大な一つの岩であってもおかしくないようにも思われる。実際、丘を登って行く道には、大理石が露出している個所があって、素の状態のそれはざらざらしているけれども、多くの人々に、踏まれたり、さわられたりしている部分のそれはつるつるとした、いわゆるぼくたちが普通にイメージする大理石になっている。
岩の比喩を続けると、エアーズロックを数十倍した巨大な岩であるところのアクロポリスの丘が、アテネの平野にぼこっと置かれていて、その岩を登って行ったところの頂上の平べったくなったところにあるのが、アクロポリスの神殿である。そうして、ぼくにとっての聖地というのは、その神殿がある、そこだ。
そこに行ったときに感じたことは何だったのだろう。岩肌を登る急な道を上っているときは、そこが特な感じを与える場所であるということは全くわからなかった。急峻な道を上りつき、頂上の、平らなそこに出た時、そこが特別な場所であることが分かったのだった。
そこにはアテネの神殿があった。だが、アテネの神殿があったから、そこが特別な聖地であると感じさせたのではなく、そこから見えるもの、そこを包む光が、そこが特別な場所であることを感じさせたのだった。
風が柔らかに吹いていて、向こうにきらきらと光る海が見えた。
そうなのだ。アテネの市街からは、全くわからなかったのだが、このアクロポリスの丘は海を見晴るかす丘だったのだ。市街と海の間にこのアクロポリスの丘はある。だから、この丘に立てば、右手に市街を見て、左手に海を見ることになる。
丘の頂上に来たのは、昼も少し遅くなっていたころだった。春に入りかけた季節の光はやさしく、そうして、西に少し傾きかけた日が逆光になって海の表面に金の砂子をまいたかのような光を反射させていた。海は、そこから近いわけではないのだが、しかし、遠いわけでもない。汽笛の音は聞こえない距離かも知れないが、船影が見えない距離でもない。
故郷の神戸でも海は見えるが、西日に光る海は見えない。神戸は南面しているが、アテネは西南面しているということか。その丘から見る者の身をつつむ黄金の光。豪奢なタペストリーだった。古代のギリシア人も、きっと、これを見たいがために、ここに神殿を設けたのかもしれない、そう思わせる光景だった。
海とは反対側を見ると、そこには、アテネの街が眼下に広がっていた。べったりと土地と一体となった影のような街。上からは、その町の街区による街割りがくっきりと見えるが、その街を四通八通する道はすべてがこのアクロポリスの丘に放射状に収斂しているかのように思えた。この丘は、この世界の中心地なのだ。海の方を見れば、そこには自然との合一があり、街の方を見れば、そこには、人間世界の希求が見える。二つの二元的世界を一つにするのがこのアクロポリスの丘かもしれない。
そうやって、その丘の在り方の文脈を少しずつ味わいながら、その丘の上で長い時間を過ごした。冬の終わりであり、春の始まりという時期は観光シーズンではなかったし、また、もう夕暮れに近いころになりつつあったので、観光客はほとんどいなかった。平和な空気がそこをおおっていた。数十分、そうやって海を、そうして街を見ていた。
そんなに長くそこにいても全く飽きなかったのはどうしてだろうか。見るものと言えば、海と街しかないから単純なのだ。飽きると言えば、飽きるはずの光景だ。その光景に全く飽きなかったのだ。いや、全く飽きなかったというのは適切な言葉ではないかもしれない。むしろ、そこをずっと味わっていたい、そこにある空気の中にあるものをずっと体の中に入れていたい、というような思いがあったのだったと思う。それは、自然との合一ではなかった。合一というのならば、むしろ、自然をそのように見ていた古代の人々の思いとの合一だったといえようか。そこをそのような場所として作った人々、その人々は、ゆうに二千年以上前の人々なのだけれども、その人々の心根と通い合うことが、そこにいることの根底にあるという感じがしていた。それを平和な感じと言えば、そう言えるかもしれない。
平和とはそういうことであろう。人と人とが言葉を交わすことなくとも、通い合えるということ以上に平和なことはないはずなのだ。そういえば、そこで、ぼくがぼーっと過ごしていたかなりのあいだ中、向こうの方でずっと抱き合っているカップルがいた。彼らのあいだに言葉はなかっただろう。そこは、ことば無くしても、通い合うということを確かめたくなり、求めたくなる場所だった。
*
二つ目の聖地は、ドイツのベルリンにあるベルリン・フィルハーモニーだ。「ベルリン・フィル」という日本語になっているともいえるカタカナ語があるので、ベルリン・フィルハーモニーというのは、楽団の名前と思われるのではないかとも思うのだが、これは、楽団の名前ではなくて、音楽堂の名前だ。ドイツ語でいうと、「ベルリーナー・フィルハーモニカ―」が、「べリン・フィルハーモニー管弦響楽団」を指し、「ベルリーナー・フィルハーモニー」が、「ベルリン・フィルハーモニー音楽堂」をさす。ベルリーナー・フィルハーモニーは、ベルリーナー・フィルハーモニカーの本拠地である。この区別は、ドイツ語で考えていると、それほどややこしくはないのだが、日本語化したカタカナ語で考えていると、ちょっとややこしい。ベルリン・フィルハーモニーは、ベルリン・フィルの本拠地ではあるけれども、ほかのオーケストラが使用することもある。
ベルリン・フィルハーモニーは、ブランデンブルク門や、ノイエ・ナショナルギャラリー(新国立ギャラリー)、ドイツ国立図書館、旧帝国議会議事堂であり現在のドイツ連邦議会議事堂などがあるティアガルテンという公園の一角にある。公園と言っても広大な敷地で、東京の皇居や、ニューヨークのセントラルパークと匹敵するか、それ以上の規模だ。政治の中心地であり文化の中心地である。そして、ここは、東西冷戦期には、東ドイツと西ドイツを分けるベルリンの壁が通っていたところでもある。ベルリン・フィルハーモニーは、その西ドイツ側であったところに建てられている。
東西冷戦といったが、そもそも、このフィルハーモニーは、東西冷戦を背景としている。建設されたのは、まさに、冷戦の真っただ中。ハンス・シャローンという建築家による設計デザインだ。これと対面するブロックにある、ドイツ国立図書館もハンス・シャローンによる作品で、ヴィム・ヴェンダースの映画、邦題で『ベルリン・天使の詩』、ドイツ語の原題で『ベルリンの上の天(ヒンメル・ユーバー・ベルリン)』の舞台となった。天使たちが、そこここにたたずむシーンが印象的だ。このドイツ国立図書館もベルリン・フィルハーモニーと同じく、黄金色に輝くパネルで覆われた独特の形をしている。
ベルリン・フィルハーモニーで、初めて見たのは、ユタカ・サド(佐渡裕)の指揮だった。この音楽堂は、ベルリン・フィルの本拠地だが、それ以外のオーケストラが使用することもあることを先に述べた。ベルリンには、ベルリン・フィル外にも、名だたるオーケストラが、たしか、六つくらいある。ベルリン放送交響楽団という放送局の持つ楽団や、シュターツ・カペレというベルリン国立オペラの持つオーケストラなどだ。六つくらいというのはいかにも多いが、ドイツが東西に分かれていたときに、ベルリンは、東ベルリンと西ベルリンにわかれていたので、西ベルリンと東ベルリンが、それぞれ三つくらいのオーケストラを持っていて、互いに自らの「文化度」というようなものを競っていたとも言われている。ユタカ・サドは、そのうちの一つの音楽監督をして、オーケストラを率いていたのだ。(ただし、それはベルリン・フィルではない。)
そのユタカ・サドの指揮するコンサートで、このベルリン・フィルハーモニーという場に心をがっしりとつかまれてしまったのだった。楽員と楽団のたたずまい、そうして、音の響きと、そこでの音楽の風景の見え方、そういったものに心を深く震わされてしまったのだ。
ドイツのオーケストラと日本のオーケストラの違いというのは、なんというか、個と全体の関係というようなものの違いにあるのではないかと思う。日本のオーケストラは、水墨画のような、あるいは楷書のような雰囲気である。楽員は、ステージの上に均等に、距離を取って並び、そうして、演奏のたたずまいは、端正で感情のうねりをむき出しにすることはあまりない。
しかし、ベルリン・フィルハーモニーで見たドイツのオーケストラは全く違った。楽員たちは、舞台の上にギューギューに詰め込まれたように密着して座り、サドの指揮に従って、体を、そして、楽器を、前後に、左右に、大きく揺らせ、一つの生き物のように動いた。あるいは、海底に揺れる大きな海草のように、音のうねりに任せて、身体と楽器が物理的に大きくダイナミックに動いた。オーケストラで最も多い楽器は、ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバスなどの木でできた弦楽器だが、その弦楽器奏者たちの持つ、木でできて、その上にニスを塗られた茶色の楽器たちいが、つやつやと光り、まるで巨大な甲虫たちが、舞台上でうごめいているかのようにも思えた。そして、木でできた弦楽器から生じる木の音が、フィルハーモニーの内装の木と響きあい、会場自体が楽器のように音を満たした。
その日の夜は、ベートーヴェンの交響曲第7番がメインで演奏されたのだが、大熱演だった。ベルリン・フィルハーモニーは、不定形な客席が、舞台の四周を取り巻いている。その時ぼくが座っていたのは、中二階と言えばよいのか、舞台から向かって左手の少し乗り出したような席だったのだが、そこからは、なんと、サドの鼻息までが聞こえたのだ。音楽とは、楽器だけがかなでるものではない。それは、場が奏でるものである。これがその時の実感だった。そして、音楽とは、耳で聞くものではない、それは、目で聞くものであり、体で聞くものだということも体で得心された。
不定形の客席と言ったが、コンサートホールには、シューボックス型と、ヴィニヤード型の二つがあると言われる。シューボックスとは靴箱という意味で、正方形や長方形の矩形のコンサートホールを指す。体育館のようなと言えばいいのか、矩形の平土間の客席に、それを取り囲む二階席があるというようなシンプルな形だ。ウィーン・フィルの本拠地であるウィーン楽友協会音楽堂が有名だ。一方、ヴィニヤード型とは、それとは違った「地形」的な構成のホールだ。ヴィニとは、ワインという語から想像がつくように、ブドウという意味であり、ヤードは畑という意味なので、ヴィニヤードとは、「ブドウ畑」という意味になる。段々畑が丘陵地帯にあり、それが谷の両側につらなって渓谷を取り囲んでいるというようなイメージで、不定形の客席が、舞台の四方をとり囲んでいる。代表はこのベルリンのフィルハーモニーだが、東京のサントリーホールもその形を踏襲している。
ベルリンのフィルハーモニーの魅力は、このヴィニヤードの面白さというところから来るものも大きい。ヴィニヤード型コンサートホールの魅力を最大限に引き出している場と言えようか。このベルリン・フィルハーモニーのロゴタイプには、五角形を複数少しずつずらせた図形が採用されているが、それは、このフィルハーモニーの客席の構成原理のようだ。五角形を少しずつずらした形には重なりが生まれるが、その重なりのそれぞれが、客席のブロックになるというイメージ。設計にあたっては、もっと複雑な操作がされてはいるはずだが、そのような形だから、二つとして、舞台が同じ見え方をする客席はない。もちろん、シューボックス型であっても原理的には、二つとして部隊が同じ見え方をする席がないのはそうなのだが、しかし、矩形の場合は線対称や点対称の地点がどこかに生じる。だが、このベルリン・フィルハーモニーでは、そのような点対称も線対称もどこにも生じない。だから、S席のブロックに座ろうと、A席のブロックに座ろうと、B席のブロックのどこに座ろうと、そこと同じ音楽体験ができる場所というのは、ベルリン・フィルハーモニーの中には、どこにもないのだ。どこにすわってもそれが唯一の体験の場である。そんな感覚を強く与える場だ。
ただし、不定形の客席なので、慣れるまでは、そのブロックにどうやってたどり着けばよいのかがわからず四苦八苦する。左側のAブロックだと思って館内の複雑な通路を歩き、ホールに通じる扉を開けてみたら、そこは右側のAブロックだったというようなこともある。開演間際に、席の間違いに気づき、あわてて館内を反対側に移動したときには、おいおい、フィルハーモニーをマラソンしているのかい、とそこらに座っているおじさんに冷やかされた。
その後、折に触れて、このフィルハーモニーを訪れ、様々な席から、様々なオーケストラのシーンを体験してきた。ベルリン・フィルの常任指揮者は、数年前に、キリル・ペトレンコに変わったが、その前の十数年間は、サイモン・ラトルがその任にあった。ラトルのまるで魔法をかけるかのような魔術的指揮と、それにこたえるオーケストラの織りなす豪奢な段通のような響きは、このフィルハーモニーあってのものであろう。
ラトルの印象的なシーンも数多く記憶の中にある。中には、指揮台の下に水の入ったグラスを置いて、楽章間に少しずつ飲みながら指揮をする姿――演奏していたのは、シューベルトの「ザ・グレイト」だったと思う。ひどい風邪だったらしい。次の日から彼は休演した――や、登場した瞬間、舞台上の背面の客席(ポディウム・プラッツ席)に座った常連たちから、ハッピーバースデーの歌のプレゼントをされて、照れて真っ白な白髪をさわって、こんな白髪頭になって、と言わんばかりに示していたシーンなど、なかなか得難い思い出もある。
その他、軽快に小走りで登場するセイジ・オザワ、バレンボイムのピアノで、ベートーヴェンのビアノ・コンチェルトを指揮したが、マフィアの幹部を彷彿とさせる貫禄満点のバレンボイムへの遠慮がありありと垣間見えるグスタボ・ドゥダメル、リッカルド・シャイイーが出てくるはずだったのに、その代役として、急遽予告なしに指揮台の上にあらわれたアラン・ギルバートなどなど、忘れ難いエピソードもある。
それにしても、何が、このフィルハーモニーの魅力なのか。それはそこが美しいものを享受する場所であるということから来ているが、それだけではないような気がする。そこにある開かれた雰囲気というか、開かれ性、その美しいものを、そこにいる人たちが、それを享受しているそこにいる人たちの雰囲気をも含みこんだうえで享受することを可能にする場ともいえようか。ここでは、音楽を奏でているのは、音楽家たちだけではない。フィルハーモニーのホールも奏でているし、また、そこに来て、その音楽という美をめでている人たち自身もその音楽の一部となっている。このフィルハーモニーは、それを可視化しているともいえようか。
*
場の開かれ性とは何か。この場所は開かれている。それは、音に対して開かれているのだが、音に対して開かれているということは、人に対して開かれているということのようにも思える。アクロポリスの丘は、光に対して開かれていた。そうして、その光に対する開かれ性は、人に対する開かれ性でもあった。
音や光を感じられる場所は開かれた場所である。なぜなら、音も光も分かち持たれ、分有あるいは、共有されるものであり、独占されるものではないからだ。音や光は、誰かが独り占めできるものではない。それは、かならず、分かち持たれるしかない。その分かち持たれ方というのは、その場に集う人たちに同じように与えられている。
光や音が美しいものであるということは、人が集まることの大きな意味付けになる。美しい光であるから、そこに人が集まり、美しい音であるから、そこに人が集う。それは求心というようなものではない。ベルリンのフィルハーモニーでは、たしかに、人は舞台上で演奏されている音楽を求心的に聞いているようにも思える。しかし、それは、求心でもあるのだが、同時に、そこで奏でられている音を自らの中に入れ、自らの中で受け止めているという点で、人々は、離散し、分散しているともいえるのだ。人は、そこで、自分の中に向き合う。ある場で、多くの人が一つの音を聴くとはそういうことであろう。そのような、求心と離散は光についてもいえる。そのようなことを可能にする、音や光の在り方を美というはずだ。
そこが聖地であるというのは、そのようにして、美というものを共有することを意識して、そのような場を作っただれかの意図が、その場を通じて顕在化していることから来ていると思う。つまり、そこを美しいものを享受する人々の場であり、それを享受する人々が、その美の享受という行為を相互行為として実践できる場としてその場を作ろうと考えた人の意志の存在の、それこそ、崇高さというものがそこにあることが、聖地の聖地性のよって来る所以であろう。
アクロポリスの丘は、その丘で、その丘の環境を享受することが美であり、良きことであるということを共有する人々によって作られた。そのような価値観を、可視化し、それを場として定着させたいと希求する人々の意志が、二千年以上の時を経ても、なお感じられるから聖地であると思えた。人の意志は、場所を通じて残る。
それは、ベルリン・フィルハーモニーでも同じであろう。聖地であるとは、聖なる地であるのだが、それは、その聖性は、その場にあるのと同時に、その場に残っている、その場をそのような場としようとした人の意志というものからきている。
それを作った人、それが作られた場、そうして、そこにいてその場とその人の存在をいまそこで知覚しているぼく。そのような三者の間の通い合いの、ある一つの極として、あのふたつの、ぼくの聖地というものが存在したのだろう。