寺田匡宏『思考のかたち、雲のかたち』
第4回「早稲田という街」
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京都のあいり出版というところから出版されている「地球のナラティブ」という叢書シリーズのシリーズ・エディターをつとめている。
「シリーズ・エディター」というのは、日本語でいえば、「監修者」ということになるかもしれないが、「監修」というほど、たいそうでも、えらそうでもなく、シリーズ刊行のもろもろのお世話係といった感じだ。
このシリーズの1冊目が、2019年春に刊行された清水貴夫の『ブルキナファソを喰う』だ。
この本は、“アフリカ人類学者の西アフリカ「食」のガイドブック”と銘打たれているが、文字通り、ブルキナファソに約20年間通った文化人類学の清水貴夫が、胃袋で体験したブルキナファソを描いたものだ。「アフリカ食」というと日本ではなじみもないが、コメや魚やおひたしや納豆など、なんとなく日本とも親和性の高いメニューが多い。
清水の書きぶりと味へのこだわりもあって、何ともおいしそうな本になった。
全国紙の書評で取り上げられたり、いろんなメディアで特集が組まれたりと売れ行きもよかったようで、シリーズの滑り出しとしては、申し分ないものとなった。さらに、清水がこの本の刊行からほどなくして、京都精華大学に准教授として迎えられるといううれしいニュースもあった。なんだか幸せを呼ぶ黄色いハンカチみたいな一冊である。
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幸せを運んでくれる本にふさわしく、この本の編集はとても楽しかった。
それは、この本の作り手が皆感じていたことだ。本は、書き手とエディターだけではできない。編集者やデザイナー、製作者が本にはかかわる。この本にかかわったのは、企画からのすべての過程に根気よくつきあわれた版元・あいり出版の石黒憲一と石黒森一郎、制作進行を一手に引き受け組版デザインから構成までをこなした綴水社の上瀬奈緒子、装丁デザインの象灯舎の和出伸一。清水が「あとがき」で書いているように、こういった面々が、京都四条烏丸あたりの喫茶店に何度も集まってああでもない、こうでもないと言いながら作り上げていったのが本書だが、それが面白かった。
チームとして、なかなかのものだったんじゃないかと思う。ちょっとした文化祭的な感じもあった。この本が好評をもって受け止められたのは、本の力によるところであるのは当たり前なのだが、その背後にあったこの“チーム”の息のあったところがなんとなく読者に伝わったというところもあったかもしれないと思う。
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このメンバーは、編集作業中には、メーリングリストのようなものを作っていて、連絡を取り合っていたが、本の編集が終わり、刊行された後も、そのメーリングリストは生きていて、時々、メールが入ってくる。
内容は、この本のイベント情報だったり、この本のマスコミでの紹介だったり、清水のマスコミへの出演だったりという情報で、まあ、どちらかというと事務的な情報伝達が主だが、先日は、上瀬から、「メーヤウについて」という件名のメールが送られてきた。
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「メーヤウ」とは何か。
『ブルキナファソを喰う』を読んだ方ならピンとくるだろうが、読んでいない人にとっては、「????」という単語だろう。英語でもなさそうだし、かといって、フランス語やドイツ語でもなさそう。この「メーヤウ」は、『ブルキナファソを喰う』の中でも「核」となるものなので、ぜひ詳細は、『ブルキナファソを喰う』を読んでいただければと思うが、もったいぶらずに言うと、「メーヤウ」は、タイ語の単語。そして、それは、あるカレー屋さんの名前なのだ。
そのカレー屋さんとは、東京の早稲田にあるタイのエスニック・カレーの店。『ブルキナファソを喰う』の中で、清水は、彼が早稲田中学に通っていたころにこの店が開店したと言い、この店に通うことによって中学生の清水はエスニック・カレーに開眼したのだという。
たしかに、タイのカレーは、一般に日本で供されている洋食の「カレーライス」とは全く違う。清水は、『ブルキナファソを喰う』の中で、それを「エスニックなものの初体験だった」と書いているが、まさにカルチャーショックだっただろう。
その後、清水と友達は、このメーヤウにはまり、メーヤウカレーを食べ続けた。清水は、早稲田中学の後、早稲田高校に進学したので、その年数は人生の中の決して少なくない期間であり、自ら「体の数%はメーヤウのカレーによってできているのではないか」とまで言う。後に、「グルマン」として、ブルキナファソの食の本まで出版することになった清水にとって、この「メーヤウ」は、まさにルーツともいえる店である。
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だが、それほどの店でありながら、なんと、この店、閉店してしまったのだ。それも、『ブルキナファソを喰う』を編集中の真っ最中のことである。そのニュースは、編集中のわれわれの間を駆けめぐった。いや、それだけでなく、メーヤウ愛好者は多かったらしく、そのニュースはメーヤウ愛好者の間を駆けめぐってもいたらしかった。
「メーヤウ」は、『ブルキナファソを喰う』の本文の中でも重要な位置を占めている。いまさら、文章を変えることはできない。閉店情報を付け加えることでなんとか大幅な本文の変更をきたさないようにした。清水は、本の執筆の合間を縫って、閉店間際のメーヤウをたずねて、「最後の晩餐」をも行っていたようだ。
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くだんのメーリングリストには、その後、『ブルキナファソを喰う』が刊行されてから、メーヤウが日にち限定で復活するというニュースが時々流れたりもした。
で、今回、流れてきた「メーヤウについて」という上瀬からのメールは、そのメーヤウが本格的に復活するという知らせだったのだ。しかも、その復活の原動力となったのは、研究者で、なんと職をなげうってまで、店長になったという。上瀬がよく聞いている荻上チキのラジオにその新しい店長が出演していたとのことで、そのリンクが送られてきたのだ。
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早速ラジオを聞いてみる。
その店長は、高岡豊さん。元中東調査会の上席研究員で、マスコミでも中東情勢についてコメントするなど活躍されていたらしい。中東調査会といえば、アジ研(アジア経済研究所)などと並んで、非欧米地域を対象とする政府系のシンクタンクとして確たる地位を占めている一流の研究所だ。その研究所の、しかも上席研究員から、カレー店の店長に、というのは、ショッキングでもあるが、その放送を聞いてみると、高岡さんは、ごく自然体で、ななるほど、それは、そういうのもありかな、と思ったりもする。
高岡さんは、大学が早稲田で、いまも早稲田に住んでいて、休日はメーヤウにカレーを食べに行くことがお決まりだったそうだ。そのメーヤウがなくなった。それは、自分にとっては、とても困ることで、困惑していたのだという。メーヤウのない早稲田はかんがえられないし、ひいてはそこでの暮らしも考えられないということだったのだろう。で、それならば、自分がメーヤウの店長になろうと思ったのだとか。
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あー、そうか、店が街にある。その店がある街に住むために、店を残す。住む人が住みたい町であるために、その店を残すために、その店を継ぐ。そうやって街のために、人生を変える人もいるんだ、と思った。その潔さに、そしてそれほど愛する街があること、それほど愛される街があることに、ちょっとうらやましさも感じたりもした。
たしかに、早稲田という街は、そんなところがある街だ。どの街でもそうかもしれないが、街は、人の思いが支える。だが、早稲田という街は、そんな人々の思いがひときわ強い街かもしれない。早稲田という街には、人と引き付ける強い魅力がある。その街にかかわった者が、その街のことを愛し、その街のある部分が自分のある部分でもあるように思う街。
そうだよな、わかる、わかる。そんなことを考えていて、ふと、あれ、これがわかるのは、もしかしたら、ぼくの人生の中でも、じつは早稲田という街が結構な位置を占めているということなんじゃないか、と思えてきた。そう思ってふりかえって見ると、早稲田という街は、ぼくのある部分を構成していて、その逆も真なりだとすると、ある意味で、ぼくも早稲田という街のある部分を構成していたといえるのかもしれない。
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早稲田という街とのはじめの出会いは、18才の時。大学1年生の時だ。
といっても、大学は、関西だったので進学のために早稲田に移り住んだというわけではない。この年の夏、仲のよかった中学時代の友達のところに転がり込んでひと夏を過ごしたのだ。早稲田に住んだともいえないが、かといって、旅行者として接したのでもない。第一次接近遭遇である。
ヤナギサワくん、というその彼とは、中学時代に本を通じて仲良くなった。ぼくの方も本が好きだったが、ヤナギサワくんも本が好きだった。その頃にヤナギサワくんが読んでいた本は、井上靖で、ぼくの方は、安部公房や開高健だったが、共通に読んでいたのは、三島由紀夫だった。三島の何がぼくたちを引き付けたのだったろう。文学ももちろんそうだが、その奇矯なところが中学生だったぼくらには魅力的だったのかもしれない。今にして思えば、三島がどうしてあのような奇矯な道に走るのかも理解できるのだが、当時は、とにかく奇矯だということしかわからなかった。しかし、その奇矯には人を引き付ける何かがあった。
当時、ぼくらの中学校では、200字詰めの原稿用紙をメモ帳状にしたものが学期ごとに配られていた。一束が30枚くらいだったから、ノートくらいの分厚さだ。書くことを習慣づけるという趣旨だったのだろうが、何かあるごとに、感想やその他を、その200字詰めの原稿用紙で提出することになった。
で、ある時、ヤナギサワくんが、その200字詰め原稿用紙にびっしり書かれた原稿の束を渡してくれた。それは、彼が書いた小説で、その小説は、子どもである「ぼく」が、近所の幼児を連れて海に遊びに行ったものの何かむしゃくしゃした思いに突き動かされ、衝動的に、その幼児を海に投げ込んで殺してしまうというような内容だった。ずいぶん無茶のある話ではあるが、当時のぼくにとっては、それが小説であるというだけでおもしろく、その他に、本好きの友達を誘って、同人誌を作ろうと、一時期、盛り上がった。
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ヤナギサワくんとは高校は別の高校に進学し、その間は、音信不通になったが、お互いが志望する大学に合格したあたりのころに、どちらからともなく電話をかけて、会うようになった。といっても、彼は、4月から早稲田大学に進学することになっていたので、それまでのつかの間の春休みの間だけだ。近くにあったスポーツセンターの1階にあったマクドナルドで、ポテトを食べながらあれやこれやを話し合ったが、その中には、あの時実現しなかった同人誌についての話もあった。とはいえ話は、その段階ではそのままで、4月にはお互いが新しい道を歩き始めることになった。
大学が始まった後も、時々、電話や手紙でのやり取りが続いた。そして、そのたびごとに、「あれ」をどうするか、ということになり、結局、その大学1年生の夏、彼の住む早稲田に行って、同人誌発行の準備を進めることになったのだ。
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ヤナギサワくんが住んでいたのは、寮だった。
早稲田通りを少し入ったところにある、早稲田通りと平行して走る細い裏道に建っていた3階建てだったか4階建てだったかのコンクリートでできた建物で、入り口にロビーがあって、そこには公衆電話があり、各階には長い廊下があって、その廊下の両側に、寮生用の個室が並んでいるというごくありふれた学生寮だった。寮生の部屋は個室だったが、個室といっても、二人部屋で、各部屋には二段ベッドがあった。浴場は、屋上に共同浴場があった。敷地の入り口辺りには、大きなカシノキが生えていて、そのカシの木が黒々とした影を作っていた。その寮が面していた裏道は、細く、バイクがすれ違うのがやっとで、車は入ってくることのできない道だった。しずかさが裏道の壁に張り付いたようなところだった。
寮にはひと気はなかった。夏休みに入ると、寮生たちは、ほとんどが帰省するか、あるいはサークルやクラブの合宿に行くかだということで、がらんとしていた。
寮には寮長がいて、寮長は、最上級生がつとめることになっていると、ヤナギサワくんが教えてくれた。寮長は、ランニング姿の腹の出た男で、じろりと人を見る男だった。今から考えると、どうしてぼくが寮生でもないのに、寮でひと夏を過ごすことができたのか分からないのだが、何か理由があったのか、単に、寮長のお目こぼしだったのか。もしかしたら、その頃には、寮というもの自体が学生たちから敬遠されるようになってきていたので、慢性的な寮生不足で、一人くらい増えるのならば、それはむしろ歓迎されたのかもしれなかったが、とはいえ、こちらは、宿泊費を払っていた記憶はないので、そのあたりは全く不明である。あのじろりは、そのあたりの事情のあるじろりだったのかもしれない。
クーラーは部屋にも寮自体にもなかったから、寮の中は猛烈に暑かった。寮生がいなくてがらんとしていたのは、せいもあったのかもしれない。夏の東京のど真ん中で、クーラーのないコンクリートの建物で夜を過ごすというのは、たしかに難行苦行だった。
食事は、たいてい、大隈講堂の前の定食屋ですませた。ヤナギサワくんがそこを好んだからだったが、その理由は、そこに、弘兼憲史のマンガ『人間交差点』が全巻そろっていたからだった。その『人間交差点』を読むことで人間観察をする、というのが当時の彼のちょっとしたブームだった。ぼくの方は、『人間交差点』にはあまり興味がなかったので、当時読んでいた『ガープの世界』と宮本輝の文庫本を読んで時間をつぶした。
結局のところ、ぼくたちは、あの夏、何をしたのだったろうか。ヤナギサワくんの実家は建築事務所をしていて、彼はそのお古のワープロを持っていたから、そのワープロで、版下を作って、同人誌の版下を作ったり、対談をしたりしたが、大方は、二段ベッドの上下に寝転んでだべっていた。
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そういえば、夜中に、あまりの暑さに耐えかねて、屋上で寝たこともあった。夏の東京は無風で、おまけに、昼間に熱せられたコンクリートは夜になってもまだ熱をはらみ、野外といっても、それほど涼しくもなかったが、けれども、屋内に比べるとどこか夜の底がひんやりとはしていた。
飛ばすべき蛍でもいたら、村上春樹の短編集『蛍、納屋を焼く、その他の短編』の中の表題作「蛍」を地で行くところだったろう。この「蛍」という短編は、それをもとに『ノルウェイの森』が書かれたといういわくつきの作品で、舞台も早稲田近辺の学生寮だ(ただし、ヤナギサワくんの寮とは別の寮)。だが、あいにく、ぼくらの手元には蛍はいなかったし、そもそも屋上にいたのは、「僕」と「直子」ではなくて、ぼくとヤナギサワくんだった。
とはいえ、この屋上の感じはそんなに悪いものでもなかった。すっぽりと東京に包まれている感じ。あるいは、すっぽりと、東京という大都会の中にくるまっている感じ。
遠くに新宿の高層ビルの赤いランプが点滅しているのが見えた。高田馬場のネオンの光が雲に反射していた。けれども、それは、どこか遠く現実離れしていて、その屋上を包んでいた淡い闇は、どこか寂しげで頼りなげな感じだった。ああ、これが東京の感じだな、そんなことを思いながら、ぼんやりとその東京の、いや、早稲田の夜空を見ていた。
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その次に早稲田と縁ができたのは、その約10年後のことになる。千葉にある国立の歴史博物館の研究員になって関東に引っ越したのだ。知る人とていない関東だったが、特に不安もなく、新しい職場と、新しい仕事への期待に胸を高鳴らせての移動だった。
すまいは職場の近くにした。その博物館は、佐倉にあった。佐倉というところは、東京から電車を二回くらい乗り換えて2時間くらいかかるところで、東京の通勤圏ではあるものの、津田沼や、船橋といった千葉の中でも東京寄りのところとは違ってちょっと奥地と言う感じがあるところだ。
古くからの城下町で、住宅開発も進んではいるが、一方で、田んぼや畑の広がるエリアも多い。東京でワンルームを借りるくらいの家賃で、野中の大きな一軒家を借りることができた。駐車場とちょっとした蔵(物置)までついていた。
そこにこもって、さあ、仕事(研究)に集中するか、ということだったが、やはり一方で、せっかく関東に来たのだから、東京のことも知りたい。とはいえ、東京は広くどこから「手をつけ」ればよいのかわからない。けれども、引っ越して仕事が始まった次の週末だか、その次の週末には、早稲田に行っていたのだから、なんとなく早稲田のことは気になっていたのだろう。
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前回は、例の学生寮にこもっていたのだが、今回の早稲田とのかかわりは、より面的になったというか、より線的になったというか。早稲田といえば、古本屋街だが、その古本屋街とのかかわりが中心だった。この関東時代のある時期、ひと月に一度くらいは定期的に、早稲田の街を歩き、古本屋をぶらぶらと見て歩くのが習いになった。
早稲田にいったい何軒古本屋があるのかはさだかではないが、早稲田通りを歩くだけで、ワンブロックに数軒は古本屋がある。早稲田通りには、古本屋以外にも、ラーメン屋とか古着屋とか、あるいは、銭湯とか、ごく普通のしもた屋とか、不動産屋とかもあって、神田神保町のように、古本屋だけがびっしりと軒を連ねて、というのとは違うのだが、まあ、足を運べば次々と、目くるめく古本屋が出てくるというストリートではある。
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早稲田通りの古本屋歩きの起点は、ぼくの場合、地下鉄東京メトロ東西線の早稲田駅だった。
ここに行くためには、まずは佐倉から京成電鉄で京成八幡に行き、そこで都営新宿線に乗り換える。そして都営新宿線で九段下まで行き、九段下で東西線に乗り換える。京成八幡の駅前にもじつは古本屋がすでに一軒あり、なかなか渋い本屋なのだが――ここでは、辞典なんかを時々買っていた――ここでつかまると、早稲田に行く前に、時間を喰ってしまうので、ここは通り過ぎるようにしなくてはならない。
で、メトロ東西線の早稲田駅につくと、前の方の出口から出る。すると、その出口を出たあたりに、新刊の本屋があり、ここで、とりあえずは、新刊をチェックする。間口三間半、かどうかはわからないが、それほど、間口は広くないけれども細長くて奥行きが割とある「京町家」風の店だ。
入り口の前にマンガ本が置いてあって小さなレジがあるというあたりはごく普通の街の本屋だが、入って左手にいきなりデザイン関係の本があったり、レジのすぐ奥には人文・社会・思想関係の新刊書の棚があったりと、本の「今」がわかる感じの本屋だ。“ウナギの寝床”の奥の方には文庫や新書の棚があり、その奥にはマンガがある。入り口近くの「島」のような台にも注目の本が積んである。早稲田通りにある新刊本屋はここだけだ。この後は、すべて古本屋になる。ここで、まず息を整えて、これからの早稲田通り歩きに備える、というのが、ルーティーンとなった。
ちなみに、『ブルキナファソを喰う』の清水貴夫が通った早稲田中学・早稲田高校も、メーヤウも、このメトロ東西線の早稲田駅の半径50m以内にある。ただ、ぼくの場合、メーヤウには行かなかったし、そもそも、あまり早稲田通りの飲食店で何かを食べるということもなかった。持参したおにぎりを、これもメトロ東西線早稲田駅の半径50m以内にある穴八幡宮の境内の木陰で食べる、というのがパターンである。
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早稲田通りの古本屋を早稲田駅から高田馬場まで東に向かって歩く。
まずは、穴八幡宮の前の坂道の途中に二軒ほど。左側にある。ここで、フィッシャー社のクロス装のドイツ語版カフカ全集の「城」の巻を見つけたことがある。ドイツ語で「城」を読みたいと思っていたころだったので、あまりのタイミングの良さにおどろいた。シンクロニシティというやつである。古本屋の出会いというのはそういうものなのだ。
そこをずっと歩いて行くと、大きな三差路に出る。三差路の手前にはお風呂屋さんがあり、シャボンのにおいが外まで漂ってくる。その手前あたりに、学帽と徽章専門店というのもあった。早稲田といえば学帽という時代の名残だったのだろう。
その三差路から、つぎの大きな交差点までが、古本エリアだ。道は、小高い台地の上の平たんな道になる。まずは、この平坦なあたりに、道の左右に数軒ずつ固まって古本屋が現れる。左側のマンションの1階に新しい店が二、三軒。右側には、年期の入った店が四、五軒ある。
面白いことに、神田神保町の古本屋というのは、圧倒的に、北向きの店が多いのに、ここは、南向きの店も多い。北向き、というのは、本が日に焼けないことを意味するらしいのだが、ここでは、あまりそんなことは構ってはいないのだろうか。神保町の「玄人向け」の感じと、早稲田の「学生街の古本屋」のカジュアルな感じの違いともいえる。
みすず書房の心理学、外国文学関係の白い本がずらっと並んでいる店、全集ものと文学書が得意な店、受験参考書の「赤本」に特化したかのような店、和本や仏教書だけの店、これといって特徴もない雑多な本が雑多に積まれた店などなど。
店と住居が一体化している感じの店も多く、テレビがついていたり、奥の方に居室らしきものが見えたりと生活感がある店も多い。神保町もそうだが、ここも、前の舗道に端本などが安く売りに出されている。吉本隆明の本なんかが結構あって、箱入りの『詩的乾坤』なんかを掘り出したりした。
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その先にいくと、少し登り坂がある。左手には、大使館だか何だかの豪壮なお屋敷があり、その反対側あたりにも二、三軒古書肆がある。
コンクリートの打ちっぱなしのモダンな建物が異彩を放っているのは、建築やデザインに強い古本屋だ。店内にはちょっとしたガラスケースがあって、そこに稀覯本が展示されていたりする。地下にもフロアがあり、この地下は人文関係と文学関係の本のフロアだ。
ここでは、中上健次の全集とマルクス・エンゲルス全集を買った。
中上の方は普通の値段だったが、マル・エンは超格安だった。まあ、それもそうだろう。いまどき、マル・エン全集を読む人もいない。約50巻、本自体は、四六判なので、それほど大きくないが、50冊そろうとなかなか壮観だ。野中の一軒家で、数部屋ある家を借りていたので、置く場所には余裕があったので、日々眺めながら、大半は“積ん読”になったが、しかし、それでも、ぼちぼちと読み進めた。
ある時、空き巣に入られたことがあった。研究者の家にめぼしいものとて本以外何もなく、盗られたものは何もなかったのだが、警察に連絡すると刑事が来た。二、三人が来て侵入のために割られたガラスを検分したりしていたのだが、部屋の中の被害を点検している時、若い刑事が、ずらりと並んだマル・エンを見て、先輩格の刑事に「オレ、マルクス・エンゲルス全集はじめて見ましたよ」とこっそり耳打ちしているのが聞こえた。
なんで、こんな本のことをわざわざ、と思わないでもなかったが、そういえば、マル・エンは、戦時中には禁書扱いで、それを所持していたら特高の訪問を受けるくらいだったというし、学生紛争や過激派の時代にも、やはりこの本を所持していることは、警察の特別な関心を引くことであったろう。もしかしたら、いまでも、警察学校では、「まるくす・えんげるす全集ヲ所持シタル者ハ、特殊ナル思想傾向アリ」とか言って、家宅捜索の際に要注意マークを付けよと教えているのかもしれない。まあ、そんなこともないとは思うが、しかし、どことなく、日本の近代というものの深淵を覗き込んだ気もした。
横道にそれたが、坂を上りきると、もう、古本ストリートは終わりだ。最後の二軒が、交差点の手前にある。一軒はマンガが充実している店。もう一軒は、文学関係の単行本の専門で、小川国夫や小林信彦や藤枝静男などといった渋い小説家の渋い小説がきれいな硫酸紙をかけて売られ本棚に整然と並んでいた。
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古本と並んで、この時期には早稲田とはもうひとつの付き合いもあった。
古本屋を見ながらぶらぶらと早稲田通りを歩いていると、あ、この散髪屋いいかも、と思って、ふと思い立って、散髪をしたことからはじまって、早稲田でその後ずっと散髪をすることになったのだ。
まあ、ごく変哲もない街の散髪屋さん、というかカット屋さんで、「アニキ」と言う感じのちょっと日焼けした感じのさわやかな、ぼくよりひとまわりくらい上らしいの人がやっていた店だ。はじめは、店は、早稲田通りにあったが、しばらくして、横道に入ったところに移転した。早稲田通り時代には、人を雇って手広くやっていたみたいだが、その横道の店時代は、その店主が一人だけでやっていて、自分の好きな店を、自分でやってる、というような雰囲気だった。店には、その店主の飼っているトイプードルが時々やってきて、とことこと店の中をあるいたり寝転んだりしていた。飼い主に甘えたり、客にこびを売ることもなく、自分のペースで時間を過ごしている感じで、散髪屋の犬としては申し分のない犬だった。
ぼくは、散髪の時には、あれこれ話すタイプではないし、その人もそうあれこれ話す人でもなかったが、問わず語りにぽつぽつと話したりして、それほど深い付き合いではないのだけれども、なんとなく顔なじみと言う感じになっていった。
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そんな中で、今でも覚えているのは、東日本大震災の後しばらくして、その店に行ったときのこと。
どうしてそういう運びになったのだかわからないが、平日の昼間にぽっかりと空いたので、散髪に行こうと思ってその店に行くと、客はぼく一人だった。(というか、その横道の店は、その人が一人でやっていて、時々、その人の娘が手伝いに来ていただけだったのだから、客は、いっときに、一人しかいないことになるのは当たり前だったが)
とくに何も話すこともなく、「ま、いつものように」というような感じで、椅子に座って髪を切ってもらっていたが、問わずがたりに、「あの時のこと」の話になった。
とはいえ、とくに具体的に、どんなことがあった、あんなことがあったという話をしたというわけでもなかった。むしろ、どんなことがあった、あんなことがあった、ということを話す代わりに、どんなことがあって、あんなことがあっての、その後のことをとりとめもなく話していたと言う感じで、お互いにいつになく饒舌、というわけでもなかったが、会話は途切れずにぽつりぽつりと続いていた。
--で、この前、久しぶりに、浅草に行ってさ。いや、なんか、突然、行きたくなったんだよね。
とかいう話だったと思う。
しばらく、そんなたわいもないことを話していたが、
--そういえば、桜、きれいだよね
と桜の話になった。“あの日”はまだ、春の初めだったが、もう、いつの間にか桜の時期になっていたのだ。
--そうですね
--ほらさ、朝、店に出勤して来るとき、神田川の横を通ってくるじゃない。それで、なんかさ、あらためて、きれいだなって
--あ、いま、満開ですからね
--桜ってさ、見てると、あー、桜ってこうして変わらなく咲くんだなあって思うよね
--ほんと、そうですよね
その店のある早稲田通りの横道をそのまままっすぐ行けば、神田川に出るが、その神田川は桜の名所でもある。川いっぱいに張り出した桜の枝が川面に映える絶景である。
こんな時でも桜は咲く。そうだよなあ。そう、桜は咲くんだよな。
会話はそのまま流れていって、また別の話になったが、なんだか、こちらは、胸がいっぱいになってしばらくは、上の空の受け答えを繰り返していた。
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早稲田について書くならば、道場親信のことも書いておかなくてはならない。
道場親信――。戦後の運動史を中心とする現代史研究者。『占領と平和』(青土社、2005年)『抵抗の同時代史』(人文書院、2008年)、『下丸子文化集団とその時代』(みすず書房、2016年)の著者。
道場とは、数年間、机を並べた。もともとは、関東に来てほどなくして、研究会で知り合ったのだったか、研究会の後の懇親会で知り合ったのだったかだったけれども、ある程度お互いを認識したのは、デモによってだった。
当時、イラク戦争が始まるか、始まらないかという頃で、盛んにいろいろなデモが行われていた。そのデモに、参加すると決まって道場がいたのだ。列の中ですれ違って「あ、どうも」というようなことが重なり個体認識が始まり、しばらくして、道場が関わる現代史の資料整理の財団の仕事を手伝うことになった。
財団の小さな事務所に行き、机を並べて、資料のカードをとったり、関係者の聞き取りをする。仕事自体は淡々とした仕事なのだが、財団の運営には、いろいろと難しいことがあったようだ。道場は、その財団の立ち上げの初期のころからのメンバーだったようだが、人の入れ替わりの中で、いつの間にか研究サイドの代表者的な重責を担う立場になっていたらしい。その重責の中には、財団の存続をめぐる交渉というようなものもあったらしく、「胃が痛い」と漏らすこともあった。実際に、診察も受けていたようである。
とはいえ、道場は、その財団の常勤研究者でも何でもなく、週に一度のペースで通う「助っ人」的立場だった。道場の専門は現代史で、その財団も現代史の資料整理なので、道場の研究上の仕事ともいえたが、当時は、それが本務ではなかった。あくまでも、“本務”は研究であり、その研究を資金的に支えるため、代ゼミ(代々木ゼミナール)の講師や添削や試験問題作成の掛け持ちで忙しくしていた。
その頃が、道場が上昇気流に乗り始めていたころだっただろう。はじめての単著である『占領と平和』という800ページ近い大冊が上梓されたのが、まさにその頃で、その本のあとがきには、たしか「空回り感がずいぶんと長く続いた」という述懐があったと思うが、それはいわば満を持して出された本だった。
以後、その本を皮切りに、という感じで、道場の快進撃が続いた。『現代思想』に毎号のように論考が掲載され、『未来』でも連載を持つ。注目の現代史研究者になり、あれよあれよという間に、和光大学の准教授に就任した。
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で、この道場がどうして、早稲田と関係があるかというと、まさに、道場は早稲田で生きた人だったからだ。道場は、早稲田大学とその大学院を出ているが、大学に進学のために愛知県から上京して以来、ずっと早稲田に住んだ。それは、早稲田が好きだったからだし、同時に、早稲田に古本屋があったからだった。
道場のまわりにいた早稲田界隈の人々には、おなじような人が多かったようだ。早稲田の古本屋に魅入られた人々。今日いろいろなところで見かける「一箱古本市」を始めたライターの南陀楼綾繁もその一人で、道場とは同級生だったからしく、道場が「河上くん」とその本名を親しそうに語っていたのを聞いたことがある。道場は、『未来』で、向井透史の『早稲田古本屋日録』の書評を書いているが、この向井透史も道場の古本の付き合いのネットワークの一人だ。
道場が早稲田の古本をどれくらい購入していたのかはわからないが、自宅では収まりきらなくなった本を複数のトランクルームに預けていた。
ある時、道場が、頭のてっぺんあたりに大きなばんそうこうを張っていたことがある。どうしたのか訊いてみると、そのトランクルームにあるはずの本を探していて、見つけた、といって頭を勢いよく上げた瞬間に、そのトランクルームの入り口の鉄の扉の鋭利な上枠に頭がぶつかり大きな傷を負ったとか。
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その頃、草森紳一の『本が崩れる』(文春新書、2005年)という本が出版されたが、その中に、草森のマンションが本で埋め尽くされ、風呂場だかトイレだかに入った時に、本が崩れてきて、その風呂場だかトイレだかから出られなくなったという話が載っていた。そのまま見つからなかったら餓死してしまうことになるので、冗談ではなく、生命の危機もあったらしい。
この草森の本について話していた時、道場は、自分も同じような目にあったことがあると言っていたから、本に埋もれた生活をしていたのだろう。
崩れるほどの本を家に押し込めたくなければ、郊外に住めばよい。郊外にならば、本を置く十分なスペースを確保することも可能だ。現に、草森も、塔状の書庫を実家のある北海道に持っていたようだが、しかし、草森はそこに住むのではなく、東京の下町に住むことを選んだ。そこが本によって足の踏み場もなくなることが確実で、部屋が本に埋め尽くされることがわかっていても、街に住む。
道場が、早稲田に住み続けたのも同じ理由だろう。古本屋のある街があるから早稲田に住み続ける。いや、もちろん、理由はそれだけではないのかもしれないが、しかし、早稲田とは、そうやって住み続けたくなる街なのだ。
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道場は2016年に49歳で亡くなった。胆管がんだったという。そのことを知ったのは、ぼくがドイツのマックス・プランク科学史研究所の客員研究員としてベルリンに住んでいた時だった。たまたま見たどこかのウェブサイトでそのことを知った。あまりに早すぎる。これからという時だったのに。最後まで、みすず書房から出版される予定の本の校正を行っていたという。
どうして、道場さん、死んだんだよ。そう口に出してみても、当時、ドイツにいたぼくにはそれは全く現実感がなかったし、いまだって拠点を関西に置いているぼくには、その現実感はない。
道場と席を並べていたと言ったが、道場とは早稲田では会ったことはない。けれども、もしかしたら、早稲田に行って早稲田通りを歩いてみたら、古本屋から古本を抱えて出てくる道場に会えるかもしれない、そんなことをすら思ったりもする。
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それにしても、早稲田とはどんな街なのだろうか。
どんな街であれ、そこに関わる人の数だけ、その街というものはあるだろうから、早稲田がどんな街かは、書きつくして書き尽くされるものではないだろう。
ある光景が僕の中に残っている。
春先のある日、ぼくは、早稲田通りを歩いている。まだ寒いが、日差しはもう春になった頃の土曜日の遅い午前のことだ。
もともと土曜日は人通りは少ないし、さらに、春先、大学の定期試験が終わり、卒業式も終わったあたりというのは、学生たちの人影もまばらな頃だ。新年度と旧年度のあいまのエアーポケットのような時間。
ぼくは、そんな時間の中を歩く。
大通りであるの早稲田通りにも車も少ないし、空気もきっかりと澄んでいる。
歩いていたぼくは、ふと、気配を感じて、ある横道でその横道を覗き込む。
細い横道。両側にはアパートだか民家だか。
と、そこには、若いカップルがいて、その二人がキスをしている。
小鳥のようなキス。
ぼくは、あ、と思い、そして、そのまま行き過ぎる。
わずか一秒か二秒の出来事。
一秒か、二秒か後にはもう消えている奇跡。
わずか一秒か二秒の魔法のような出来事が、ひそやかに起こる街。
早稲田というのはそんな街だ。
そんなことが起きる街だからこそ、ひとはそこを愛するのかもしれない。