寺田匡宏『思考のかたち、雲のかたち』
第3回「コロナの時代にハイデガーを読む ――人・技術・自然――」
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コロナの時代にハイデガーを読む。
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ハイデガーは、20世紀初頭から中旬にかけて活動したドイツの哲学者で、主著『存在と時間』(1927年)で知られる。この本は、存在するということ、あるということ、とりわけ、人間が存在するということはどういうことかを、誕生や死、時間や歴史などとの間で論じた本である。
人間が存在するとはどういうことかをそのようなかたちで包括的に論じた人はそれまでにはいなかったし――アリストテレスも、カントもそんな風には人間が「いる」ことを論じなかった。それ以後も今のところいない――デリダも、マルクス・ガブリエルもそういうふうには論じてはいない――ので、かなり独自の思想家である。
ハイデガーのことを、20世紀最大の哲学者という人もいれば、哲学史上最大の哲学者の一人だという人もいる。前者の見方については、多くの論者がうなずくだろうが、後者については異論が出るかもしれない。それらが正しいかどうかはさておき、哲学の歴史に残る存在であることは間違いない。
日本にも多大な影響を与えた。九鬼周造や田辺元は直接ドイツマールブルクでハイデガーの謦咳に接したし、直接講筵に連ならなくとも、和辻哲郎がその主著の一つである『風土』(1935年)を『存在と時間』からの刺激によって書いたように、直接間接のかかわりは深い。京都学派とハイデガーとの関係は、英語圏、ドイツ語圏、フランス語圏において、今日、盛んに論じられている。
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今世紀最大の哲学者、あるいは史上最大の哲学者の一人であるが、一方で、ハイデガーの思想は謎めいた部分があることも確かである。カントやデカルトも史上最大とも言われる哲学者だが、カントやデカルトには、ハイデガーのような謎めいた部分はない。
カントやデカルトの著書には――カウントしたことはないが――おそらく「謎」というような語は出てこない。彼らは、世界を明晰に、システマチックにとらえることを目標とする。そこには隠されたものはある余地はない。
だが、ハイデガーの著には、「謎」という語が時々出てくる[1]。この世界の謎を解こうとするのは、哲学の目的だが、それを謎ととらえ、あるいは、謎であると表現するかどうかは、哲学者の姿勢にかかっている。
謎とは何か。ドイツ語でいう「謎(ゲハイムニスGeheimnis)」という語は、ハイムheimという語を構成語として持つが、ハイムとは家という語であり、家の中に匿うという感じがある。ゲハイムニスとは、謎というよりも「隠匿」と訳した方がよいかもしれない。
謎とは、隠匿である。それは、隠されているものである。隠されているものと、その隠されているものの顕現、そしてそれを隠すもの払いのけというモチーフ。
ハイデガーの世界へのスタンスの基本にはこの姿勢がある。そのあたりが、どことなくハイデガーに魔術的雰囲気を感じさせるところなのかもしれない。だが、これはこの後見てゆくように、魔術でも何でもなく、世界と人間とのかかわりの重要な要素である。
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コロナの時代にハイデガーを読むと書いたが、コロナの時代とは「禍」の時代である。
「禍」の渦中で、ハイデガーを読む。
だが、「禍」において、ハイデガーが読まれるのは、じつは、コロナ禍が初めてではない。
そもそも、ハイデガーの『存在と時間』は、第1次大戦と第2次世界大戦の間の不安定な切迫した時期に、ドイツの青年層を捉えた。当時の青年層は、切羽詰まった時代精神と通じる何かをハイデガーの書の中に見ようとした。
それは、ハイデガーの思想の根源性ともいえるし、その根源性が、世界を謎ととらえる姿勢とも通じているともいえる。
確かに、世界には解けない謎がある。科学がいくら進んでも、ものがなぜあるのか、世界には無はなくて、どうして存在しかないのか、という問題への「科学的」な答えは見つからないだろう。「禍」とは、それを意識させる時間である。
ハイデガーは、『存在と時間』の刊行の後、ナチスに深くコミットした。このことが何を意味するかは、きちんと認識されなくてならないが、ナチスという政治運動もある意味で危機への対応の一種だともいえる。
だが、ここで、言いたい「禍」とはそれではない。日本で、前回、ハイデガーが読まれた文脈だ。
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前回、日本でハイデガーが、「禍」中において読まれたのは、2011年の“フクシマ”の出来事の後である。この時、ハイデガー「技術への問いDie Frage nach der Technik」という論文が、よく読まれた。この時を契機に、複数の日本語訳が出て、文庫本として売られている。平凡社ライブラリーの『技術への問い』(2013年)と、講談社学術文庫の『技術とは何だろうか』(2019年)が、それだ[2]。この二つの本においては、日本語のタイトルは異なって訳されているが、原文は同じである。
なぜ、フクシマの後、この論考が読まれたのか。それは、表面的には、この論文が核(原子力)という技術を論じているからである。これから詳しく見てゆくが、この論考が扱う技術とは、まさに核技術である。
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しかし、危機の時代に人々に読まれる書とは、単なる表面的な類似だけで読まれるのではないだろう。
危機とは、人に根源的な思考を求める状況である。そのような状況で読まれたということは、この論には、根源的な何かがある。その根源的なものとは何か。
この論考は、技術とひと、世界の関係を問うている。その根源性が、人々をこのハイデガーの論に惹きつける。
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コロナの時代にハイデガーを読む、というとき、ここでは、ハイデガーのこの技術を読んでみたい。
では、コロナの時代に、なぜハイデガーの技術論なのか。それは、コロナの時代が、フクシマとは違ったかたちで、人と世界、技術の関係を根源的に問うているからである。
コロナ禍は、いうまでもなくひととウィルスの問題である。だが同時に、ひとと技術、ひとと自然の問題でもある。
コロナ禍においては、ひととウィルスが直接対峙しているのではない。その間には、技術という媒介が挟まっている。コロナ禍は技術を媒介にした文明の中で発生し、その制御にも技術という媒介が大きな役割を果たす。その意味で、コロナの時代とは技術と人と自然が問われている時代である。
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ハイデガーの「技術への問い」という論文は、1953年、ミュンヘン工科大学での「技術時代の芸術」と題された講演会シリーズの1回の講演原稿である。ハイデガーの『講演と論文Vorträge und Aufzätze』(1954)という本に所収されている。この『講演と論文』とは、本というには、味もそっけもないタイトルではある。とはいえ、ハイデガーの著書はこの手のタイトルも多い。ハイデガー全集は、100巻に及ぶ大冊だが、ハイデガーは、生きている間に十数冊の本しか出していない。著作リストを見ると、その本たちは、この手の簡潔なタイトルが多いし、そもそも、本というよりもパンフレット的なものも多い。やや突き放した感じのタイトルは、ハイデガーの同時代人の西田幾多郎が後期の著作集のタイトルをすべて『哲学論文集』と統一し、それに第1、第2などという数字を付して区別していたのとも共通する。
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この論文は、講演原稿なので、小見出しや章立てはないが、内容を整理すると次のようなものになる。
I. はじめに
II. ものへの働きかけ
III. 現代技術とは何か
IV. 立てるstellen、用立てる bestellen、為作Gestell
V. 自然学(物理学)と技術
VI. 現実態の問題とプラクシス(実践)
VII. 危険‐危険性
VIII. 払隠Entbergenとしての技術
IX. 人間と為作
原文は、ハイデガー全集の第7巻に『講演と論文』ごとそっくりそのまま収められている[3]。『講演と論文』の巻頭を飾る第1番目の論文として置かれた論文である。ドイツ語全集版で29ページ。講演での読み上げ用の原稿ということもあり、比較的短いテキストである。
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このテキストの中で、ハイデガーは、まず、「はじめに」で技術の本質とは何かを問うことが「技術への問い」である、と述べた後、技術とはものへの働きかけであるという。
その際に、彼が参照するのは、アリストテレスの、四原因説である。四原因説とは、アリストテレスが『自然学』と『形而上学』で述べた存在を存在たらしめる原因の分類で、質量因、作用因、形相因、目的因の四つである[4]。
通常、科学が前提とする因果性よりもこれは広い概念である。アリストテレスは、『自然学』と『形而上学』の中で、存在を存在として扱うための概念的道具立てを考えているため、科学の因果性よりも幅広い原因が扱われているのである。ものが、どうして存在するのかを規定する原因のようなものである。
ものが存在するためには、質量や形が必要である。質量や形相がなければ、ものは存在できない。これが、質量因や形相因である。また、そのものがそのような質量やかたちをとるに至る作用と、それがそうなる目的が必要である。そのものは、そのものをそうならしめた作用がなければ、そのようには存在しなかった。そして、そのようにものが存在したということは、そのものをそうならしめた目的があったはずである。これが作用因と目的因である。アリストテレスの『形而上学』とは、存在を存在としてとらえる学であるが、その学の基本がこの四原因説である。
ハイデガーはまずは、これを技術論の基盤に据える。このアリストテレスの論への着目が彼の論文「技術への問い」の眼目の一つでもあるが、アリストテレスの説の意味については、後で詳しく述べよう。
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つづいて、ハイデガーは、「払隠(エントベルゲンEntbergen)」という概念を導入する。「払隠」とは辞書には存在しない語だが、ハイデガーによる造語である。
ハイデガーは、造語を多用することでよく知られている。ただし、造語といっても、ハイデガーの場合、難しい語を作り上げるのではない。そうではなく、ありふれた日常語を、思いもかけない組み合わせ方で用いることで語を作る。そうすることで、語が異化され、慣習的な使用の中に埋もれていたその語の可能性が新たに浮かび上がるのである。
ハイデガーの語の異化で著名なのは、人間という存在を表現するのに用いた「現存在」という語である。これは、ドイツ語では「ダーザインDasein」という。「ダー」という語と、「ザイン」という語からなるが、「ダー」とはそこ、「ザイン」とはあるというごくありふれた語である。この語は、ハイデガーが造語したわけではなく、カントやヘーゲルも用いていた語で、近世の啓蒙哲学期にギリシア語のエグジステンティアexistentiaを表現するためのドイツ語として生み出された。エグジステンティアは「事実存在」の意味で、クイディティアquidditasやエッセンティアessentiaなどの「本質存在」と対になる語である。ハイデガーは、このダーザインに改めて注目し、『存在と時間』の中で、「ダー」(場)と「ザイン」(存在)の関係から、存在が存在することの意味を問う。
日本語で「現存在」というと、難しいが、ドイツ語でいう「ダー」とは、そこに、という語であり、赤ん坊も使う日常語である。赤ちゃんが「それ、それ」というときに「ダー、ダー」という。フロイトは「快楽原則の彼岸」(1920年)という論文の中で、赤ちゃんが「ダー」「ダー」と言って、ものを指すことの意味を論じているが[5]、ものを指し示す指示詞とは、もっとも単純であるが、人間の方向性に関わり、挽いては、欲望の方向性に関わる根源的な語である。
一方の、「ザイン」とは、英語でいう「イズis」にあたる。なんの変哲もないコピュラ動詞である。この2語を組み合わせた語が「ダーザイン」。「現存在」と訳されてはいるが、「そこ=あり」とでもいうようなニュアンスの単純な語である。そこから、ハイデガーは、『存在と時間』の体系を組み立てる。この「払隠」もハイデガーの造語であり、彼の技術論はその上に構築される。
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「払隠(エントベルゲン)」とは、「払う」や「払いのける」という語感のentという接頭辞と、「隠す」という意味の雅語のbergenを組み合わせて作られた語である。
もちろん、これにあたる日本語は存在しない。ぼくは、これをここで「払隠」と訳しているが、これまでの訳では、日本語では、「開蔵」と訳されている。蔵が開かれるというイメージである。
日本語の蔵が開かれるというと、蔵の扉が開いて、薄暗いその中をのぞいているというニュアンスがある。だが、「エントベルゲン」の場合、もう少し開かれたイメージがあるのではないかと思う。
ベルゲンbergenという動詞とは直接的な関係はないのだが、ドイツ語ではベルクBergというと山を指す。
深読みすると、ハイデガーはわざわざ「隠す」という語に山を意味するベルクと似通った雅語であるベルゲンを用いたともいえる。山が隠すというイメージである。
とすると、巨大な山が払いのけられるという感じになろうか。あるいは、霧でおおわれた巨大な山の霧が払いのけられ、巨大な山の姿が現れると言う感じであろうか。
ハイデガーは山の人でもある。海の人ではない。彼はスイスとの国境近いアルプスの山トートナウベルクTodtnaubergという山中に山荘を所有していたから、この連想もあながち間違いでもないだろう。それもふくめて、ここでは、「払隠」と訳しておく。
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で、ハイデガーは、技術の本質とは、この「払隠」であるというのである。
ここでいう技術とは、西洋近世以来の科学がエネルギーの問題に傾注したことで生み出されたエネルギー技術である。
なぜ、エネルギー技術が「払隠」か。エネルギー技術とは、何の“隠され”を払いのけているのだろうか。そこであらわになるものとは何か。この問いが、このハイデガーの技術論のモチーフとなる。
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この論文では、しかし、現代技術の詳細に立ち入る前に、さらに、ハイデガーは、造語を続ける。技術とは、「為立(ゲシュテルGestell)」することであるというのである。
一般的に、技術とは、何かを「作る」ことに関するものだと考えられているだろう。しかし、彼は、「作る」という語を用いることを回避する。そして、「立てる(シュテレンstellen)」や、「用立てる (ベシュテレンbestellen)」という語を用い、さらに、それらと関連した語として「為立」という語を造語するのである。
これらの語もごく日常的な語である。哲学用語ではない。たとえば、ベシュテレンとは、日常では、注文するとか整えるとか、あるいは、単になにかをするとかいうときに使う。「立てる」を意味する「シュテレンstellen」という動詞に、「ベbe」という、ある種の能動性のニュアンスを加える接頭語が冠されている。文字通りに言えば、「立てるを為す」とでもいおうか。しかし、注文が「立てるを為す」とはどういうことか。注文するとは、そこにはなかったある状態を出来させることである。ある状態を立てることである。つまり、ある状態からある状態への変化を起させるということの強調が、この「ベシュテレン」という動詞にはある。
ハイデガーが技術とは、「為立(ゲシュテル)」であるという時の「ゲシュテル」とは、この「シュテレン」という「立つ」という動詞を語幹に持つ語である。「シュテレン」、つまり「立てる」に、「ゲ」という動詞の過去分詞形を示す接頭辞を加えて名詞化した語である。「立てる」を完了させる、「立てる」を為し終えるというような語感がある。このゲシュテルを、ぼくは「為立」と訳したが、一般的には「立て組み」と訳されている[6]。
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さて、ここまで来て、やっと現代技術の問題を論じる準備が整った。
この論文でハイデガーが論じる現代技術とは、端的に言ってエネルギー技術である。水力発電、原子力(核)発電などが論じられる。なぜ、エネルギー技術なのか。もちろん、ここで、原子力(核)発電が論じられているのは、時代的背景もあろう。この論文が書かれたのは1953年、ヒロシマとナガサキに原子爆弾(核爆弾)が用いられてからまだ日も浅く、東西冷戦の進展を背景として、さらに、水素爆弾の実験も続いていた。この論文の中では、原子爆弾(核爆弾)への直接的言及はないが、この論文が所収された『論文と講演』の別の箇所には、直接的な言及もある[7]。
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エネルギー技術とは何か。
それは、エネルギーを保存し、それを「為立」せしめる技術である。先ほどもいったが、西洋近世以来の科学はエネルギー保存の問題をめぐる学であったといっても過言ではない。エネルギー保存についてのいくつもの法則が発見され、エネルギー保存の様々な技術が開発された。その到達点として、原子力(核)技術がある。
では、このエネルギーとは何か。それは力である。では、その力とは何か、その力の本質とは何かが問題になる。
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興味深いことに、ハイデガーは、エネルギーの根源には太陽からのエネルギーの放射があることを指摘している。彼は、自然とはその太陽からのエネルギーの「第一の貯蔵者Hauptspeicher des Enegiebestandes」であるという[8]。たとえば、石炭は、「炭鉱の中にねむっているが、それは、つまり、自らの中に保存された太陽のエネルギーを用立てとして差し出すためにそのようにあるのであるSie [die Kohle] lagert, d.h. sie ist zur Stelle für die Bestellung der in ihr gespeicherten Sonnenwärme」[9]。
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太陽から放射されたエネルギーが光合成により変換されエネルギー・フローとして食物連鎖となることは、エコ・システムという考えの基本中の基本である。
現在の目から見ると、ハイデガーがエネルギーの問題を太陽の放射の問題ととらえていることは、ごく自然なことのように見えるだろう。だが、それは、この講演が行われていた1953年当時には、まだ一般には膾炙しておらず、最先端の学知であった。
そもそもエネルギーがエコ・システムとしてとらえられたのは、20世紀の中葉になってからある。それ以前のエコ・システムの捉え方は、クレメンツの植物相の遷移説などのように、生物のコミュニティだけに注目していた。しかし、1920年代に熱力学と生態との組み合わせが模索され、1950年代にはユージン・オダムがそれを栄養のサイクルとして統合的に論じた[10]。
その集大成ともいえるオダムの『生態学の基礎 第2版Fundamentals of Ecology Second Edition』の刊行は、1953年である。このオダムの著書を、システム生命学の大橋力は、それまで物質という次元だけで環境を捉えていた生態学に、エネルギーという概念を導入し、エコロジーを物質とエネルギーという二つの次元に拡張したことは、まったく新しい環境観を開くものであったと評価する[11]。
エネルギーの概念が導入されることにより、エコ・システムが地球システムあるいは宇宙システムの一部であることが明確に位置づけられた。そのことで、よりダイナミックに地球のエネルギーが生物の世界と関係していることがとらえられる。これが、現代の地球環境学の視点である。
興味深いことに、オダムの『生態学の基礎 第2版』の出版は、1953年であるが、ハイデガーの「技術への問い」の講演も1953年である。
ユージン・オダムのエネルギーへの視角は、弟のハワード・オダムからの知識によるものであるという。そのハワード・オダムは、一般システム論の黎明期に活躍した研究者であり、後には、国際システムサイエンス学会会長も務めたという[12]。ユージン・オダムはつまり、当時の最先端の知である一般システム論の知を生態学に導入したのである。
ハイデガーが、当時エネルギーの保存と循環から技術の問題を論じようとしているのは、そのような同時代の地球環境に関する最先端の科学知との共時性を示すものでもある。
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だが、ハイデガーの地球環境の先端的知との共振は、この時点においてはじめてあらわれたのではない。
そもそも、ハイデガーは、1920年代にユクスキュルの環世界論を、哲学的に取り入れたことでも著名である。
ヤーコプ・フォン・ユクスキュルとは、ドイツの生物学者で、生物には生物の世界観があり、その世界観が連続して環境を作り上げていることを明らかにしたドイツの生物学者である。日本では、生物学者の日高敏隆が高く評価し、岩波文庫ではユクスキュルの『生物から見た世界』が日高訳で出版されている[13]。
ハイデガーは、このユクスキュルの学説を、自らの哲学的体系の中にいち早く取り入れていた。
フライブルク大学の1929/1930年セメスターで行われた講義「哲学の基本問題――世界・有限性・孤独」の中で、ハイデガーは、ユクスキュルの『生物の理論』(1928年)や『生物の内的世界と環世界』(1921年)を援用しながら生物と世界のかかわりについて論じている[14]。
この「哲学の基本問題」という講義は、ひと、もの、いきものの世界とのかかわりを、三つに区分したものとして著名な講義である。人は世界を構築し(Weltbildend)、ものは世界を失っており(Weltlos)、いきものは世界に貧しい(Weltarm)。そのように世界と主体のかかわりの違いがあることを論じた書であるが、そこに、当時、刊行されたばかりであったユクスキュルの書が引用されているのである。
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ユクスキュルの環世界論は、今日、地球環境学の基本概念の一つとして評価されている[15]。ハイデガーは、今日よりも約80年前に、すでに、世界を地球環境学の基本視座から論じていた。
先のエネルギーへの着目といい、この環世界論との関わりといい、ハイデガーのとらえていた世界が現代の環境とのかかわりを先取りしていたともいえるし、それはまたハイデガーの思想の根源性を示すものでもあろう。
この講義が行われた1929年といえば、彼の主著『存在と時間』(1927年)が発刊された翌年である。『存在と時間』では、おもに、人間にとっての存在の意味が問われた。それに続く時期に、彼が、ひと、もの、いきものの世界への関わり方の差異を講義のテーマとして論じていた。
ひと、もの、いきものとは、世界を構築する基本的要素であり、環境そのものである。ハイデガーには、ひと以外の存在も含めて地球という存在を統合してとらえる視角が生じていたともいえる。先に見たエネルギーへの言及は、その環境への関心が、十数年後も持続していたことを示していよう。
環境の哲学としてハイデガーの思想を読みなおすことも必要であろう。
冒頭で和辻哲郎『風土』がハイデガーの『存在と時間』に刺激されて書かれたと述べたが、じつは『風土』はハイデガーの『存在と時間』が時間に偏重していることを批判し、空間を人間存在の問題として扱おうとしていたものである。そして、和辻は、その風土の分類を気候と植物相から行っていた。フレデリック・クレメンツの植物相の遷移説については、先ほど見たが、これは、当時の最先端の学知であった。ハイデガーは、だが、この和辻の批判を先取りするようにその先を行っていたともいえる。
また、ハイデガーの「技術への問い」が書かれた1953年の少し前の時期には、今西錦司の『生物社会の論理』(1949年)が出版されている。今西は、この書の中で、クレメンツらの生態学を批判し、棲み分け説を唱えた。この時期とは、地球をエコロジカルなシステムとしてどう相対的にとらえるかが問われていた時期である。
和辻と今西の思想も、地球環境に関する哲学として今日、評価が進んでいる思想家である。その思想との共時性や比較という視点もありうるであろう。
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では、このハイデガーの環境観は、どこから来ているのか。それが、アリストテレスとの関わりであり、それは、自然をどうとらえるか、という点にあらわれている。自然の問題とは、技術の問題からは若干それるようだが、そうではない。これの点がまさに、ハイデガーの技術論の要諦である。
先ほど述べたように、ハイデガーは、「技術への問い」で核(原子力)技術に象徴される現代技術を取り上げているが、その際、それを「フィジックスPhysik」の問題として扱う、と述べる[16]。このフィジックスという語にそれを解くカギがある。
「フィジックス」とは、何か。今日の感覚でいうと、これは「物理学」と訳される。たしかに、核(原子力)技術は物理学の問題であり、ハイデガーもその意味で用いている。しかし、「フィジックス」とは、じつは、「物理学」だけを指すのではない。「フィジックス」とは、「自然学」でもある。そして、この「自然学」には長い歴史がある。
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「自然学」とは、アリストテレスから来ている語である。アリストテレスには『自然学』と『形而上学』という二つの著書があることはすでに述べてきたが、この「自然学」と「形而上学」という語の中に、どちらも、「フィジックス」という語が含まれている。「自然学」が「フィジックス」、「形而上学」が「メタ・フィジックス」で、ギリシア語でいうと、『自然学』が『ピュシケー・アクロアシスΦυσικὴ ἀκρόασις』、つまり、「自然に関する探求」である。一方、『形而上学』はギリシア語では、『タ・メタ・タ・ピュシカτὰ μετὰ τὰ φυσικά』、というが、「メタ」という語は「上」や「次」という意味なので、「自然学」の「上」にあるもの、「自然学」の「次」に来るもの、という意味である。直訳すれば「上・自然学」「次・自然学」である。
アリストテレスは、『自然学』では、ものがどうして動くのか、つまり、ものが、そうなるのはどういうことかを論じ、『形而上学』では、存在がどうして存在として存在するのかを扱う。
アリストテレスには、天体や動物、植物、気候を扱った書があるが、この二つは、それら個別の自然に通底する基本原理を論じたものである。そして、重要なことは、アリストテレスが、この二つの「自然学」を統一した視座から論じていたことである。
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自然とは、ギリシア語でピュシスφύσιςである。では、このピュシスとはいったい何なのか。
今日、「自然」というと「自然にあるもの(存在物)」を思い浮かべる。風、水、土、火、星、いきもの、ものなどの「自然物」「自然界の存在物」である。
しかし、ギリシア語の「ピュシス」とは、これとは若干ニュアンスを異にする。それは、「自(おのずから)らそのかたちになるもの」というニュアンスがある[17]。「自然物」「自然界の存在物」というよりも、「自然物」「自然界の存在物」の中に含まれている、「自らそうなる力」のようなものを指す。直訳するとすれば、ピュシスとは、「うみなす」「なる」であるともいえるだろう。
「自然」を意味する英語の「ネイチャーnature」やドイツ語の「ナテューアNatur」の語源となったラテン語の「ナチュラnatura」も同じ意味である。ラテン語の「ナチュラ」という語は、ギリシア語の「ピュシス」の訳語として生まれたが、このナチュラとは、「生む」という「ナスキnansci」という動詞の過去分子から作られた[18]。つまり、「ナチュラ」とは、本来の意味は、「自然物」「自然界の存在物」というような今日的な意味ではなく、まさに「うみなす」「なる」という意味なのである。
「うみなす」「なる」とは、どういうことか。それは、何かが何かになることである。なかったもの、なかった状態が、あったもの、あった状態になることである。このなかったもの、なかった状態から、あったもの、あった状態への変化がどうして起きるのかを解き明かすことがアリストテレスの最大の課題であり、彼は、それを解き明かす書として『自然学』と『形而上学(上・自然学)』を書いた。アリストテレスの哲学とは、このピュシスの解明を基軸に組み立てられたシステマチックな体系である。
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ハイデガーの思想は、アリストテレス哲学から大きな養分を得ている。全集の中にもアリストテレスを論じた講義が多数収録されているし、主著である『存在と時間』もそもそもは、その結末をアリストテレスを論じることになっていた。現在公刊されているのは、その部分が未完となった状態であることはよく知られている。
つまり、ハイデガーの形而上学と存在論はアリストテレスに大きく依拠している。
だが、これは、哲学の歴史から見ると、異端ともいえる姿勢である。じつは、アリストテレス哲学は、近世と近代には否定されているのだ。アリストテレス哲学は、中世までは、西洋のオーソドックスの位置を占めた。中世の思想家であるトマス・アキナスもドゥン・スコトゥスもアリストテレスのシステムに依拠している。しかし、近世や近代の哲学者は、このアリストテレスの見方には従っていない。
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アリストテレスを否定したのは、デカルトである[19]。デカルトは『方法序説』(1637年)の中で、「我ゆえに、我ありコギト・エルゴ・スムCogito ergo sum」として「我」を発見したが、これは、心身を二分したことである。
だが、なぜ、それがアリストテレスを否定することになるのか。アリストテレスが『自然学』と『形而上学』という書を書いていることを先に述べた。このことは、アリストテレスが、「自然学(フィジクス)」と「形而上学(メタフィジクス)」を連続してとらえていたことを示す。その連続の基盤にあるのが、存在を存在として分析する「第一哲学(形而上学)」であり、アリストテレス・システムの中では、人間の存在も自然の諸事象も同じ地平で分析される。
だが、デカルトは、その連続を否定する。デカルトの「コギト」の発見とは、主体と客体、主観と客観の分離である。そして、客体が自然科学の対象、主体は人文学の対象となる。アリストテレス・システムの中に人間の主観や主体というようなものは存在しない。つまり、デカルトは、「コギト」の発見によって、アリストテレス・システムの根源的に否定したのである。
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デカルトの主観と客観の分離は、人間の主体性の確立であった。
だが、同時に、それは、人間という主体を自然から切り離すものでもあった。
『人新世の衝撃』の中で、科学史家のクリストフ・ボンヌイユとジャン・バプティスト・フレッソは、近代科学とは、自然システムと社会システムの分離であると述べるが[20]、それは、このことである。
人間を扱う学である哲学は、その後「心」の分析に向かう。主体や認識が問われるようになる。リチャード・ローティはデカルト以後の哲学を「心の構築」と呼ぶ[21]。一方、自然科学は、人間の心や認識とは切り離された客体としての自然を扱う。近代の学知は、この二頭立ての馬車で進み、そうして近代の学知は大きな成果を上げてきた。
だが、しかし、その弊害が現れていたのも事実である。世界は、近代の依拠する、主体と客体の二元論、主観と客観の二分論、人間と自然の分離という見方ではうまくとらえられない。ハイデガーは、近代の生み出したものとしての科学とその限界をアリストテレスに立ち返ることで超克しようとした。ハイデガーの技術論の独自性はそこにある。
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技術とは、自然と人間のはざまにあるものである。だが、近代科学、近代哲学は、自然と人間を截然と区別する。とすると、近代科学と近代哲学の技術論では、自然と人間は分離してとらえられざるを得ない。だが、技術はその中で位置づけにくい。
人間にも属するし、自然にも属する技術をどうとらえるか。
アリストテレス・システムを受けたハイデガーの技術論は、人間、もの、いきものを一つの視座の中でとらえることでこの隘路を抜けようとした。
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さて、そのような中で、改めて、エネルギーとは何かを見るとどうなるのか。
エネルギーとはアリストテレス・システムと密接な関係を持っている。
そもそも、エネルギーとは、あるものを可能にする力である。あるものを可能にするとはどういうことか。
それは、まさにピュシスでありナチュラである自然の「うみなす」「なる」力である。この「うみなす」「なる」力によって、あるものが可能になることを、アリストテレスは、可能態の中から、現実態が出来することであるととらえた。
この可能態と現実態という考え方こそが、アリストテレス哲学の根本原理である。
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アリストテレスは、可能態(デュナミスδύναμις)と現実態(エネルゲイアενέργεια)として世界をとらえる。
アリストテレスの『形而上学』の中心的議論はこれである。
現実の背後には、現実とならない可能態があり、現実は、その可能態から出来したごく一部である。あるいは、存在とは、存在しないという可能態の中から、存在が現実化することによって出来した現象である。アリストテレスは、『形而上学』の中でこの論をすべての哲学に先行する「第一哲学」と呼んでいる。
こんにち、われわれは、何かが出来することを可能にする何かのことを「エネルギー」と呼ぶ。その「エネルギー」という語そのものが、アリストテレスのいう「エネルゲイア」を語源に持つ。
高度に発達した現代文明の中にいるとき、人はエネルギーと無縁に生きることはない。それは、近代科学と近代技術がなしえたエネルギー技術のたまものである。だが、その源をたどると、行き着くのは、アリストテレスが、世界を、現実態(エネルゲイア)と可能態(デュナミス)の二つの相として見た見方である。
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ハイデガーのいう「払隠」と「為立」とは、このアリストテレス的な可能態と現実態という世界の捉え方に対応している。
なぜ技術が「作る」ではなく、「立てる」と関係する語によって新たに表現されなくてはならないのか。それは、「作る」とは、「立てる」ということだからである。「立てる」とは、何かをあらたにそうさせること。無かった状態を、あった状態にさせること。可能態から現実態を出来させることである。ハイデガーは、この可能態から現実態にあるものを出来させるということが技術の本質であるという。
技術とは、「立てる」だけでなく、可能態の中に隠されていた現実態を、その“隠され”を「払隠」すことによって、現実のものとする。
現実態とは、可能態の中の“隠され”を「払隠」し、普遍の中に個別を「為立」することである[22]。
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普遍とは、限定されえないものである。美とは不変だが限定されない。美はという普遍だけでは存在はできない。美は、美しいバラとして個別に出来しなくてはならない。ハイデガーは、技術における「払隠」とは、この普遍から個別を出来させることであり、それが「為立」という行為だという。
世界を可能態と現実態の二つの区分からとらえる見方は、アリストテレスの見方である。一方、普遍と個別とは、プラトンのイデア論の中心となるアイディアである。つまり、ここで、ハイデガーは技術の問題をアリストテレスだけでなく、さらにアリストテレスの師であるプラトンにさかのぼって論じようとしてもいる。
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技術を「払隠」とみるハイデガーの見方とは、ある意味で自然に寄り添うような姿勢であるともいえる。
技術が、「払隠」であるとするならば、それは、自然の中に備わった力が、自然に発露することを助けるだけであるというニュアンスもあるからである。とすると、人間が行うことは、自然が自らそうなることを助けるだけであるともいえる。
確かに、ハイデガーは「技術への問い」の中で、「自然(ピュシス)とは、つきつめていうと“つくること(ポイエーシス)”でさえあるDie φύσις ist sogar ποίησις im höchsten Sinne」と述べている[23]。「自然(ピュシス)」とは「うみなす」「なる」と訳することもできることを紹介したが、「うみなす」や「なる」とは、ある状態を「つくる」ことである。
これは、技術が、自然をコントロールしたり、ものを操作したりするという通常の見方とは異なる。その意味では、自然と共生したり、自然の力を生かしたりするという思想でもあるとも言える。
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だが、一方で、そうなると、人間と自然の関係はどうなるのだろうか。
それは、人間は、自然の一部であるということを意味しているだけなのだろうか。
自然が「うみなす」「なる」ものであり、自然も「作っている」とするならば、自然は自ら「払隠」をも行うということになる。そうなると、自然の「払隠」と人間の「払隠」とは、同じであるのか。
ここで、「自然」と「自然物」「自然界の存在物」の違いという問題をあらためて確認しておこう。
「自然」が「払隠」をするというときの、「自然」とは「ピュシス」である。先ほども見たように、「ピュシス」とは「自然物」「自然界の存在物」ではない。「ピュシス」とは、その「自然物」「自然界の存在物」を「払隠」を通じて「うみなす」作用であり、その意味で「払隠」そのものである。
人間、技術、自然の関係を考えるとき、人為と自然ということが問われる。あるいは、自然が技術を持ちうることがあるのかという問いもありうるであろう。自然と人為とはどう区別されるのか。たとえば、動物もある種の技術を持つことがあるが、動物は、自然物である。それが用いる技術とは、では「自然」なのか。
ハイデガーは、「自然物」「自然界の存在物」を、人間、動物、ものに区分し、人間は世界を構築するが、動物は世界に乏しく、ものは世界を欠くと考えた。
この三つの区分とはどこから来るのか。
それは、世界との関わりであるが、その世界との関わりとは、世界における真実との関わりである。世界とは、意味を持った環境である。それは、ものの境域ではなく、意味の境域である。そのような境域とどうかかわるか。ここに、人間と技術と自然の関係性を解くカギがある。
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じつは、「払隠」とは、真実にかかわる語でもある。「技術への問い」の後半のテーマは、「真実」であるが、なぜ、「技術への問い」で真実が論じられるかというと、真実も、「払隠」によって見いだされるものであるからである。
真実とは、ギリシア語で「アレーテイアἀλήθεια」というが、それは、「隠され(レテイア)」が、「ない(ア)」状態である[24]。そして、この真実を感知できるかどうかの度合いが、ひと、いきもの、ものの間を区分する。
「技術の本質には、つまるところ、二重の意味性がある。この二重の意味性は、あらゆる「払隠」の秘密、つまり、真実の秘密の中において見出される。Das Wesen der Technik ist in einem hohen Sinne zweideutig. Solche Zweideutigkeit deutet in das Geheimnis aller Entbergen, d.h. Warhheit. [25]」
ハイデガーは、こう述べるが、技術の問題とは、「払隠」を通じて、じつは、真実へのアクセスの問題であることが述べられている。この文章の冒頭で「謎」について述べたが、「謎」とは、真実を「払隠」ということに関わる問題である。
世界の真実は、秘められている。人間は「払隠」を通じて、世界の真実に到達する道を持っている。いきものは、その道が乏しく、ものには、その道はない。
一般的には、この真実へのアクセスの問題は、ロゴス(知)の問題である。だが、ハイデガーは、それを「払隠」の問題とすることで、技術の問題でもあることを示した。
「自然(ピュシス)」との関係の中で、ひと、もの、いきものはグラデーション状に存在している。その中で、技術を用いるとはどういうことか。ハイデガーは、人間の技術を「払隠」ととらえることで、「自然(ピュシス)」と「自然物」「自然界の存在物」の中に統一的に位置付けた。
「技術への問い」が書かれた1953年時点での先端技術は、核(原子力)技術であったが、その後、技術はさらに高度化した。高度に発達した科学技術は、もはや自然とはかかわりがないように見える。だが、しかし、技術の本質が「払隠」である限り、それは、「自然(ピュシス)」、「自然物」「自然界の存在物」とのかかわりの中において存在する現象なのである。
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以上がハイデガーの「技術への問い」が論じるところである。では、コロナの時代にこの視角はどのような意味を持つのだろうか。
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そもそもコロナ禍はこれほど技術が発達しなければ、これほどの規模とはならなかったであろう。高度に発展したテクノロジーが地球上を結び、2020年は世界史上でもっともグローバリゼーションが進んでいた時代である。武漢で発生したコロナ禍はまたたくまに全世界に広がった。武漢のロックダウンの後、ヨーロッパやアメリカ、日本でロックダウンが開始されるまでに要したのはわずか2カ月である。スペイン風邪もパンデミックではあったが、その拡散が全球に達する速度は、半年や数カ月のレベルであった。起源については諸説あるが、1918年1月ごろにアメリカで発生したインフルエンザがヨーロッパに入るのが4月ごろで、6月ごろにインドや中国に達している。それに比べると2019新型コロナウイルス(2019-nCoV)によって引き起こされた新型コロナ・ウイルス感染症は格段に早い。
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ウィルスの本体はDNAやRNAという遺伝子だが、ウィルスはその遺伝子を常に変化させている。ランダムに変化したDNAやRNAのある型がある状況に合致した時、エピデミックやパンデミックが起こるが、そうでない遺伝子形を持つウィルスは死滅してゆく。
コロナ・ウィルスは、決してひとを全滅させるようなウィルスではない。その致死性は低く、エボラ・ウィルスなどとは比べ物にならない。ウィルスも、生存が最終目的であるから、宿主を全滅させては意味がない。一方、宿主の側は、常に変化するウィルスに対応して免疫機能を発達させてゆく。生物とウィルスの間にはこのせめぎあいが常にある。
生物進化においては、共進化という概念がある。二種の生物が存在したとして、その両者が共存しながら進化することである。
宿主の側に免疫機能が生じており、ウィルスが存在するが、宿主の側の生物種がウィルスによって全滅する状態ではない状態も「共進化」の一種である。逆に、共進化が存在しない時には、ウィルスが宿主である生物種に甚大な被害を与えることになる。それが、人間に対して起きた時、エピデミックとなり、動物に対して起きた時、エピズーティックとなる[26]。パンデミックとは、エピデミックの激甚型である。
2019新型コロナ・ウィルス感染症の世界的蔓延は、パンデミック(エピデミック)であったが、つまり、その時点では、人間という宿主とウィルスの間には共進化は不在であった。
だが、パンデミック(エピデミック)は制御されつつある。そうして、ウィルスが存在するのに、エピデミックは存在していない状態が起きつつある。ウィルスが存在するのに、エピデミックが存在していない状態とはまさに「共進化」である。つまり、2019新型コロナ・ウィルスと人間の「共進化」が現在進行しているのである。
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今のところ、2019新型コロナ・ウィルスに対するワクチンは存在しない。その代わりに、人間は、自然の免疫と、テクノロジーを用いて制御しようとしている。コロナ禍の制御にはデジタル・テクノロジーが用いられる。個人レベルまで普及したデジタルデバイスとビッグデータの利用である。情報学研究のシュテファン・グルンバッハのいうデジタル・エコロジーであるが[27]、そのデジタルエコロジーが免疫の代わりを務めている。
その意味では、2019新型コロナ・ウィルス感染症とは、テクノロジー時代の人間と技術とウィルスの「共進化」のありかたを示す。
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コロナの時代において、ひと、もの、いきものは新たな絡まりあい方を示している。
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コロナの時代とは、ひと、もの、いきものの関係が切り分けにくい時代である。
いや、そもそも、世界の成り立ちは、ひと、もの、いきものを切り分けられるものではなかったともいえる。近代科学がそれを切り分けてきていただけである。
その限界へのアプローチは学の中からもあらわれつつある。『人新世の衝撃』でクリストフ・ボンヌイユとジャン・バプティスト・フレッソが自然システムと社会システムの分離を近代科学の特徴として論じたことを紹介したが、それは、「人新世(アンソロポシーンAnthropocene)」が提唱されたことそのもののが問おうとしていたことでもある。
あるいは、人類学では、ティム・インゴルドなどのように、存在論的転回と呼ばれる動きが、ひと、もの、いきものの在り方を問い直す[28]。
近代科学が自明視してきた世界のカテゴリー化を見直し、世界の成り立ちを根源に立ち返ってその在り方を考えようという動きが諸学の中で生じている。そして、逆説的ではあるが、これは、この時代に、コロナ禍が出現したことと無縁ではない。つまり、近代科学が技術を発展させ、それとともに、コロナ禍が出現したのであったとするならば、コロナ禍の出現とは、つまり、近代科学が自明とする価値観の問い直しと平衡する現象であるともいえるからである。
コロナの時代とは、ひと、もの、いきものの関わりの在り方が改めて問われる時代である。それは、世界というものがどのような成り立ちをしているのかという問題である。世界の成り立ちの根本原理として技術を捉えるハイデガーの視角も、それと通底している。コロナの時代にハイデガーを読むことのアクチュアリティはここにあるのではないか。
※この文章は、トヨタ財団 2018年度特定課題研究助成プログラム「先端技術と共創する人間社会」の共同研究「人間と計算機が知識を処理し合う未来社会の風土論」(代表・熊澤輝一、2019年~2021年)の成果の一部である。代表の熊澤輝一(総合地球環境学研究所)とのディスカッション--SNSを介した遠隔の――に多くを負っている。
[1] これから論じる「技術への問い」という論文の中でも「謎」という語が「払隠」を論じる中で用いられている[Heidegger 1953=2000:26]。
[2] [ハイデッガー2013」、[ハイデガー2019]。
[3] [Heidegger1953=2000].
[4] 『自然学』 II, 3、『形而上学』V, 2。
[5] [Freud 1920=1975].
[6] [伊藤1998]。
[7] [Heidegger 2000:168].
[8] [Heidegger 1953=2000:22].
[9] [Heidegger 1953=2000:16].
[10] [Dickinson and Murphy 1998:14].
[11] [大橋2019]。
[12] [大橋2019]。
[13] [ユクスキュル/クリサート2005]。
[14] [Heidegger 1929/1930=2018:327ff, 365ff, 383ff].
[15] [立本(編)2013]、[ Berque2014].
[16] [Heidegger 1953=2000:22].
[17] [Mittelstraß 1995: 241].
[18] [Onions 1966].
[19] [Kenny 2006].
[20] [Rorty 1979=2009].
[21] [Bonnueil et Fressoz 2013].
[22]なお、ぼくが、2018年に京都大学学術出版会から出版した『カタストロフと時間――歴史/語りと歴史の生成(エネルゲイア)』という本は、このような可能態と現実態と言う視点から、歴史と呼ばれる現象が、どのようにして生じるのかという問題を論じたものである。[寺田2018]
[23] [Heidegger 1953=2000:12].
[24] [Heidegger 1927=1972: 33].
[25] [Heidegger 1953=2000:34].
[26] [Stearns and Hoekstra 2005:473].
[27] [Grumbach 2018].
[28] [Ingold 2000].
[29] [Latour 2006].
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