寺田匡宏『思考のかたち、雲のかたち』
第1回「人間と無限」
無限は宗教的思考にひとを誘うものであり、恐怖を誘うものでもある。無限に似たものに無がある。無も同じように宗教や畏怖と関係している。死が人間にとっておそれの対象であるのは、それが無と関係しているからであるという説がある[1]。つまり、死は死そのものではおそれの対象ではなく、死が無であるととらえられるときに死への恐怖が発生するという。死にはいくつもパラドックスがある。たとえば、自分の死を体験することはないのに、人は死をおそれる。自分が体験するのでなければ、それは、おそれる必要はないのではないはずである。しかし、人は自分の死を、それを自分が体験しないのにもかかわらず、おそれる。死をめぐるパラドックスには、無に関するパラドックスもある。人は死後、つまり、未来の無をおそれる。しかし、人と言う存在を考えた時、そのひとの存在の依然と以後には、同じ無があったはずである。誕生以前の過去の無についてはおそれることがないのに、死後の無についておそれるというのはどういうことか。これもパラドックスである。だが、ここで人がおそれるのは、無であろうか。それとも、無限であろうか。そこでいう寂滅以後、父母未生以前は、無であるともいえるし、無限だともいえる。それを永遠と呼ぶ人もいるかもしれない。
仏教では、この死と無の問題は、サンサーラsaṃsāraとニルヴァーナnirvāṇaの問題としてとらえられる。サンサーラとは輪廻と訳される。もの以外のいきものは、すべて輪廻を繰りかえす。五道と呼ばれる、人、天、畜生、餓鬼、地獄という世界が存在し、死後に、もの以外のいきものはそのいずれかの世界にまた生まれることになると仏教は考える。この輪廻とは、車輪のように繰り返される。ここでいう世界とは、現世であり、現世には苦が存在する。苦が存在する現世に生まれ変わり続けることは、苦痛でしかない。そこからの解脱が仏教の目指すところである。解脱した先にある境域をニルヴァーナと言う。ニルヴァーナは通常涅槃と訳される。そこにおいては、一切の苦はない。安楽の世界であるが、その安楽とは、輪廻から逃れること、すなわち、無限から逃れることによるものである。入滅、すなわち死が涅槃と訳されることもあるが、死が苦から解脱したものであったとするならば、それはまさに涅槃であろう。ただし、苦から解脱し得ず、輪廻の中にいるものにとっては入滅イコール涅槃ではない。
ドイツの思想家フリードリヒ・ニーチェは、『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883-1885年)の中で、無限の問題を扱っている。それをニーチェは「永遠の回帰の思想Ewige-Wiederkunft-Gedanke」という[2]。直訳すれば、「永遠なる再到来」である。『ツァラトゥストラ』は、拝火教の開祖であるゾロアスターと同じ名を持つツァラトゥストラという30歳の男が、遍歴を重ねる中で世界を発見する過程を描いた一種のセリフ劇である。その劇的な構成ゆえに、後に、ワーグナーによって「ツァラトゥストラはかく語りき」として1896年に交響曲として音楽化されている。
世界の遍歴による世界の意味の発見とは、18世紀から19世紀後半のドイツの文学に見られるロマン主義文学の大きなモチーフで、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1975-1796年)や、続編にあたる『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』(1821年)も、この『ツァラトゥストラ』と全く同じモチーフを持つ。その遍歴には、山々や自然が大きな意味を持つ。ニーチェは、『ツァラトゥストラ』のサブタイトルを「時間と人間からの百尋かなたにおいて6000 Fuss jenseits von Menschen und Zeit」と称しているが[3]、この「百尋」とは約1800mであり、山の高みを示す。ドイツロマン主義の画家カスパー・ダヴィド・フリードリヒの作品に、山頂に立ち、ステッキをついて、眼下に広がる雲の海を眺め渡している若い男を描いた「雲海の上の旅人」(1818年)という画があるが、それも、このロマン主義の世界観を典型的に表している。
ニーチェは、自伝『この人を見よ』の中で、この永遠の無限回帰を「肯定の最上の形態」と呼ぶ[4]。無限とは、たしかに、おそれの対象ではあろう。しかし同時に、無限とは、ある種の歓喜である。不死鳥のように、再生することとは、ニーチェにとってあらゆるものを肯定することに通じるものであった。
ものについて考えるならば、この世に存在するものは無限ではない。無限に多いように思われるものはあまた存在するだろうが、それは、無限に多いように思われるだけであって、この世界に存在するものは数え上げることができる。ものとは、そのようなものである。宇宙にあるものは無限に多数のように思われるだろうが、しかし、今、この瞬間を切り取った時、宇宙にあるものを数え上げることはできるはずである。
宇宙は、ものから成り立っている。どれだけ数が多かろうと、ものは数え上げることができる。ものは、無からは生じることはない。存在としての宇宙は、物理的存在であり、そうであるから宇宙はすべてものでできているはずである。そして、ものは無から生じることがないのであるから、あなたの身体を構成しているものは、宇宙のはじまりから存在したはずであるだろう。
今日の科学では、宇宙のはじまりは、136億年前のビッグ・バンであると考えられている。その時に、高温高密度のあるエネルギーのかたまりがあり、そのエネルギーのかたまりが拡散し続けることで、ものが生じ続けた。この136億年という年代は、1917年にオーストリアの物理学者アルバート・アインシュタインが発見した真空中のエネルギー密度を示す宇宙常数ラムダΛと、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルが1929年に発見した光速に関するハッブル常数Hを用いた宇宙の膨張に関する計算によって導かれている[5]。純粋に理論的に導かれたものである。だが、もし、放射性同位体分析のような物質内の何らかの作用によってその年代を測る方法が超長期の過去におけるそれに延長されることになったならば、この世のあらゆるものを構成しているものの年代はこの136億年以前にさかのぼることはないことが明らかになるに違いない。
数学において無限は、まずはじめに近代において、空間と時間の問題として扱われた。近代は、空間と時間を、世界の最も基礎となる単位であると考えていた時代である。ドイツの哲学者イマニュエル・カントが『純粋理性批判』(1781-1787年)において、理性の根源である超越性を空間と時間をめぐるアンチノミー(二律背反)から論じようとしたのは、それを示している。一方、今日では、空間と時間は決して世界の規定要因ではないことが明らかになっている。アインシュタインの相対性理論(1915-1916年)は、時間と空間の次元が融合した「時空(スペース・タイムspacetime)」がこの世界の基盤にあることを前提としているし、人文学における言語論的展開を導いた哲学者ルドルフ・カルナップの『世界の論理的構築』(1928年)は、世界の規定要因は論理であり、論理によって世界が構成されていることを論じる[6]。だが、それ以前の近世から初期近代においては、空間と時間の絶対性が支配していた。
そのような中で無限は、数学的には、まずは、空間と時間を分割するものとして出現した。微分法や積分法である。ドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツとイギリスの数学者物理学者のアイザック・ニュートンがこの方法を17世紀末から18世紀初頭に発明した。どちらが先かということで、ニュートン派とライプニッツ派が争い、前者がライプニッツを剽窃であるとして批判するという事件も起こったが、現在は、ライプニッツはニュートンとは別個に発見したことが明になっている[7]。
ライプニッツとニュートンが発見したこの方法を、インフィニテシマルinfinitesimalというが、このインフィニトinfiniteとは無限を意味する。インフィニテシマルinfinitesimalはミニマルminimalやmaximalと同じ状況に関する副詞であることを示すmalという語尾を持ち、数学用語としては‘微積分法の’と訳されるが、‘無限小の’と訳されることもある。ここでいう、微積分とは、空間と時間を無限に小さく分割する計算方法である。そこにおいては、空間と時間の絶対性が前提となっている。
だが、この数学における空間と時間も、相対性や言語論的展開と同じような挑戦を受ける[8]。無限は空間や時間の無限の分割として、果たしてとらえられるのか。そこにおいて、出現したのが、無限を集合の問題としてとらえる捉え方である。ロシア出身でドイツの大学で教鞭をとったゲオルグ・カントールは集合の繰り返しの中で無限を扱う方法を生み出した。無限とは繰り返しである。繰り返しが無限を生む。
だが、繰り返しが、物質の世界の中で行われている限り、それは、有限である。なぜなら、物質的世界は有限なのであり、有限の世界の中で行われる行為は、有限の回数しか存在しないからである。無限は、この世界の中においては存在しない。では、無限はどこに存在するのか。
アブダクションabduction(仮説的推論法)という思考の方法がある。これは、推論の形式に関する形態分類の一つで、インダクションinduction(帰納法)でも、デダクションdeduction(演繹法)でもない第三の道である。インダクションもデダクションも、科学の基礎である。それらは論理により導かれる。しかし、その論理以前にそれが正しそうであるという直観が導くものがあるのではないか。アメリカの哲学者チャールズ・サンダース・パースはそう考えた[9]。そう考えて、アリストテレスが『分析論前書』が、三段論法の論証方法として言及したアパゴゲーἀπαγωγήという概念[10]に注目し、それをアブダクションとして定位した。
パースの思想は、プラグマティズムと称される。プラグマティズムとは、「使用による合理性」とも言われる。それが合理的に使用されている限り、それは合理的である。その合理性は、その使用が合理的であることが決める。合理性は、超越的に決められるという考え方もあるし、合理性は理性により決められるという考え方もある。しかし、プラグマティズムは、そうは考えない。世界は、合理的だからこうなっているのであり、合理的になるために世界はこのように設計されたのではない。それは、目的論を排する。
イギリスの哲学者デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』(1739年)の中で、事実命題から価値命題を導くことは不可能であるとした。だが、プラグマティズムの立場に立てば、そうではない。「ある」ことは「そうであるべき」ことである。つまり、事実命題は、価値命題をその中にすでに含んでいる。
ニューロサイエンスと認知科学に哲学からアプローチしているパトリシア・チャーチランドは、このアブダクションの底には、パターン認知が大きな役割を果たすという[11]。パターンを認知し、それをアナロジーによって他と結びつける。アナロジー(類推)とは、人類の世界認知の基本方法である。フランスの人類学者フィリップ・デスコラによると、アナロジーは、トーテムズム、アニミズム、ナチュラリズムとならぶ四つの基本的世界認知の方法の一つである[12]。
あるものが、合理的であるかどうかというアブダクションの根底には、パターンの認知がある。過去に合理的であったものとパターンが同じである限り、認知はそれを合理的であるとする。無限とはパターンである。とするならば、人間が、あるパターンを無限であると認知するのを可能にするのは、人間の認知の中に、無限というパターンがすでに織り込まれているからであることになる。
人間の認知の中に既に存在する無限というパターン。風土学・哲学のオギュスタン・ベルクは、ロラン・バルトの意味の連鎖からヒントを得て、それを「通態の連鎖」として定義した。ベルクによると、現実とは、主語が述語により限定されることである。あなたは、あなただけではあなたではない。あなたが、あなたであるのは、あなたという主語だけがそこにあってるだけでは実現しない。そこにある主語だけのあなたは、あなたではない。あなたという主語が、「あなたである」という述語と結びついて初めて「あなたは、あなたである」という現実となる。
ベルクは、これをr(現実、リアリティ)、S(主語、サブジェクト)、P(述語、プレディカット)という記号を用いて、r=S/Pと表現した。現実は、述語が主語を限定することによって構成されている。しかし、このrは、じつは、これだけにとどまらない。人間の主体とは、たえまなく、新たな現実により更新される。r=(S/P)/P’という新たな現実があり、その次には、r=((S/P)/P’)/P’’という現実がある。これは、結局のところr=(((S/P)/P’)/P’’)/P’’’…として無限に続くことになる。ベルクは、この通態の連鎖を歴史と言う時間の中で繰り返されるものであると言い、その通態の連鎖は人間が、進化と歴史の中にいることを示すという[13]。
たしかに、これは時間的に連鎖するものであろう。しかし、同時に、それは構造的なものでもあり、人間存在というシステムそのものの中に無限が織り込まれている。
進化認知学は、人間が協働する意思を獲得した時に言語が生まれたという。協働する意思とは、ある目標を立て、それに向かって働くということである。ある目標を立て、それに向かって働くとは、共同で何かを作り上げるという作業であり、同時に、それのためにはコミュニケーションが必要となる。そのコミュニケーションが言語を生んだというのである。
マックスプランク進化人類学研究所を率いる進化人類学者のマイケル・トマセロは、人間の認知の歴史を述べる中で、そのような協働が先であり、言語はその後に生まれたという。言語があったから、協働が可能になったのではなく、協働があり、それに付随するものとして言語が出現したというのである[14]。考えてみれば、協働は言語がなくても可能である。現在のわれわれでさえも、言語無しで、ある程度の作業はできるだろう。もちろん、コンピューターを組み立てることは不可能ではあろうが、簡単な小屋を組み立てることくらいは、目くばせや、身振り手振りで可能であろう。これは、犬や象にはできない。とするならば、協働への意思の存在が重要なのであり、言語はその必要条件ではないことになる。
その共同とは何か。それは、相手の意思を読むことである。相手の中に主体を見ることである。相手の主体性をみとめ、それに自己の主体性を同調させることである。そして、そのような、相手の主体性を認めるという主体性を相手の中にも認めることである。その相手の主体性を認める主体性を認める相手は、また、その相手の主体性を認める主体性を認める主体性をこちらにも認めるであろう。これは、無限である。この過程は無限に続く。この繰り返しが、協働の正体であり、それが協働を生み、言語を生んだ。とするならば、まさに、無限が人間を生んだのである。
ホモ・サピエンスがアフリカで発生したのは20万年前から10万年前だと言われている。もし、人間の発生と無限の発生が同じだとしたら、無限の歴史とは、10万年あるいは20万年の歴史であると言えるだろう。いや、無限の歴史は、10万年や20万年ではなく、やはり無限なのだろうか。このパラドックスも、また解かれるべきパラドックスでもあるかもしれない。
[1] Alan Lacey, “Death”, in Ted Honderich (ed.), The Oxford Companion to Philosophy, New Edition, Oxford: Oxford University Press, 2005, pp.190-191.
[2] Friedrich Nietzche, Ecce Homo, im Karl Schlechta (Hrg.), Friedrich Neitzche Werke III, Frankfurt/ M: Ullstein, 1969, S. 574.
[3] Ibid.
[4] Ibid.
[5] Michael Rowan-Robinson, Cosmology, Fourth Edition, Oxford: Oxford University Press, pp.83-84.
[6] Rudolf Carnap, Der Logische Aufbau der Welt, Hamburg: Meiner, 1998.
[7] Maria Rosa Antognazza (ed.), Oxford Handbook of Leibniz, Oxford/ Oxford University Press, 2018, p.7.
[8] Bertrand Russel, The Principles of Mathematics, New York: Norton, 1996 (Original Publication 1903), p.259 ff..
[9] Charles Sanders Peirce, “The Three Normative Sciences,” in The Peirce Edition Project (ed.), The Essential Peirce: Selected Philosophical Writings, Vol. 2 (1893-1913), Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press, 1998 (Original Publication 1903), p. 205 ff..
[10] Aristotle, Prior Analytics, II, 25.
[11] Patricia Smith Churchland, “Inference to the Best Decision,” in John Bickle (ed.), The Oxford Handbook of Philosophy and Neuroscience, Oxford: Oxford University Press, 2009.
[12] Descola, Phillipe, Par-delà nature et culture, Paris : Gallimard, 2005.
[13] Berque, Augustin, Poétique de la Terre: Histoire naturelle et histoir humaine, essai de mésologie, Paris : Benin, 2014, p.229.
[14] Michael Tomasello, A Natural History of Human Thinking, Harvard, MA: Harvard University Press, 2014, p.152 ff..