思考のかたち、雲のかたち
寺田 匡宏
思考と雲は似ている。
どちらも宙に浮かぶもの。
どちらも形のないもの。
どちらもうつろい動くもの。
どちらも消えゆくもの。
名前の付いた雲もあるし、名前のつかない雲もある。
名前の付いた思考もあるし、名前のつかない思考もある。
いい雲があれば、悪い雲もあり、いい思考があれば、悪い思考もある。
雲が浮かぶ日があり、雲が浮かばない日があり、思考が浮かぶ日があり、思考が浮かばない日がある。
どちらも、存在するともいえるし、存在しないともいえる
そんなものを、どうすれば、それをとらえることができるのだろう。
一つだけいえるのはどちらも、その底に、この世の存在があることだ。
雲は、水分子からできているし、思考は、人間から生まれる。どちらもが、しっかりと、この世界に根を下ろした存在物だ。
そこに根がある限り、その根をたどっていけば、それをとらえることはできるに違いない。
そんな根をさがす旅に出てみたい。
第10回「ぼくの聖地論――光と音と開かれ性について」
寺田匡宏『思考のかたち、雲のかたち』 第10回「ぼくの聖地論――光と音と開かれ性について」 ぼくにとっての聖地というのがこの地球上に今のところ二つあるのだが、その二つについて書いておきたくなったので書いておくことにする。書いておくとは、その土地がどういう土地なのかを書くということであり、それは、ぼくの中の聖地を文章にして、文章という形として残しておくということだ。…
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